「すばらしき世界」を観られる世界の素晴らしさ

役所広司大和ハウスのCMのおじさんだと思っている人は一定数いる。自分もその一人だ。これだけ多くの出演作があって、見たことのあるタイトルは「THE 有頂天ホテル」だけ、それも中高生の頃に一度DVDかなにかで見ただけで記憶はおぼろげだ。映画俳優としての役所広司を知らずに生きてきたところへ、いきなり「すばらしき世界」での圧倒的な芝居を見せられて、すっかり引き込まれてしまった。

「すばらしき世界」の役所広司は、いったい何がすごいのだろうか。彼が演じる三上は刑期を終えて出所してきた元殺人犯。瞬間湯沸かし器にたとえられる激情型の人物で、自身の考えに反する事物に対して愚直に怒りを表明する以外には応対する手だてをほとんど持たないような性格である。そういう役を、デフォルメなしで演じているのがすごいのだと思う。特殊なバックボーンを持つキャラクターとして脚色して立ち上げて、フィクションの中の人間ですとはっきり示して観客に親しみを持たせるというのではなく、現実にこの人物が隣町あたりに生活していると錯覚させるような、物理的に距離を縮めてしまうような確かさがあると思う。乱暴に言ってしまえば、それがお芝居であることを忘却させてしまうのだと思う。いや、三上を実在の人物のように感じる一方で、映画を観ているさなかだというのに頭が冷えてどうか役所広司が永遠に映画俳優として映画館の暗闇の中に映し出されるようにと願って泣いたりもしたから、この言い方は正確ではない。とにかく、三上は「いる」人間だった。が、ここまで書いてきたのは役所広司のすごさに対する反応や印象であって、その理由は言葉にならずじまいだ。太刀打ちできないすごさだ。ぜんぜん言葉の負けでいいと思った。

具体的に言えることがあるとすれば、彼の身体についてだ。役所広司が立っているだけで三上という人間が存在することを説得されてしまう。一挙手一投足が現実になっていく。直立不動のまま役所の冷たい床にびたんと音を立てて倒れる。食べかけのカップ麺を勢いよく撒き散らかす。うずくまって高血圧の薬をすがるように飲み込む。キャラクターの描かれたポロシャツと何の面白みもない短パンを身に付けて背中を見せて駆けて行く。そうした挙動の数々は、長い服役期間による老成に気付かず、いまだ体が壮年期のままであるかのように誤解した魂に突き動かされているように見えた。そして、物語の終盤でぴかぴかの黄色いフレームの自転車を慎重に漕ぎ進める様は、三上の心と体と社会的な振る舞いがようやく一致して、年相応のよくいるおじさんの枠に収まったかのようだった。また、役としての身体ということ以前に、スクリーンに映える肉体なのだと思う。Yシャツにスラックスを履いて立っているだけで目を引くのだ。古傷だらけの背中も女性を抱く胸板も、生々しいのにどっしりとして格好よく映し出される。役所広司というひとは、人間の厚みや重さをよく伝える肉体をしているのだと気付かされた。(そういえば大和ハウスのCMでも体を使った芝居をしていたし、本作をきっかけにして観た「Shall we ダンス?」もまさに社交ダンスを題材にした肉体にフォーカスが当たる作品だった。)

自分は人並みかそれ以上には怒鳴り声が苦手な性質だと思う。あらすじを読んで、主人公は元極道の殺人犯でうんぬんと言われたとき、観るか迷った。明らかに怒鳴られそうな作品をすすんで観たくなかったから。実際作中では三上が声を荒げるシーンも多いのだが、思いのほか萎縮しなかった。出所してきた三上が出会う人間たちは、彼に対して様々な態度で接する。奇異の目で見るものもいるし、不躾な偏見を持っているものもいる。しかし共通して、三上の威圧的な態度にひるまない。高血圧で受診した病院で医師は怒鳴る三上に貧乏ゆすりをしながら叱責し返すし、免許センターで彼に応対した警官は「大きい声を出すんですか」と毅然とした態度を崩さない。どうやら自分は怒鳴り声そのものではなく、怒鳴られた相手の反応に恐怖を感じていたらしい。そういった意味では、「すばらしき世界」における三上の挙動は不快感を引き起こすものではなく、社会に適応しようと奮闘する彼が繕っても繕っても生まれるほころびであり、むしろこれ以上ほつれていかないようにと祈るような調子で周囲に受け入れられていた。

冒頭で役所広司の芝居は登場人物をキャラクタライズするものではないと書いたが、それはリアルな質感を追求するに留まり親しみがわかないという意味ではない。この表情、この言動を重ねれば観客は三上に情を移すだろう、といった演出上の仕掛けの積み重ねはあるのだろうが、それを考えるのを忘れて抵抗感なく肩入れしてしまう。三上の背中を流しながら「戻らないでください」と懇願する津乃田と同じ気持ちで、歯を食いしばりながら彼を見守っていることに気付く。どうかこのまま、彼の人生が穏やかに続いてくれますようにと祈った。

朝一の回を観て映画館を出たら、外はちょうどラストカットを再現するような色の薄い青空だった。空の色を継ぎ目にして、すぐ隣で起こっている現実かのように見えた「すばらしき世界」が、本当に経験した過去として自分の時間にはめ込まれたかのようだった。がんばろうとか真摯に生きようとかではなく、「すばらしき世界」があるいまこの世界は素晴らしいと、漠然と満ち足りた気分になって帰ったのをよく覚えている。