舞台のオンライン化について最近思っていることのメモ

2021年3月13日(土)に行われたEPADのシンポジウムの3部を視聴しました。その中から記憶に残ったトピックを思い出しつつ、最近考えていることを残しておきます。
舞台という形はもちろんだけど、何より現場で舞台を観ることが好きな自分は、現場のないオンライン配信の作品をきっかけに初めて舞台を観る人のきっかけやモチベーションはどこにあるんだろう、というのをここしばらく疑問に思っていて、これから観るかもしれない人にとっての配信とは?につながる考えを中心に書いています。それ以外も書いています。
初めてオンライン配信の舞台を観た備忘録を書いたあとこんなところまでまとまったよという内容です。
 
EPADが何であるかについてはhttps://epad.terrada.co.jpをご確認ください。
また、シンポジウムはYouTubeに全編アーカイブが残っています。間違いがないよう聞きながらメモは取っていましたが、ニュアンスや正確な内容については動画でご確認ください。
 
EPAD事業の存在はそれまでぜんぜん知らなくて、ままごとの2015年上演版の「わが星」の映像がアーカイブされるというお知らせが出たときにはじめて認識したところだった。その後ステージナタリーのツイートでシンポジウムが開かれることを知ってリアタイで視聴した次第です。
 
 
シンポジウムの3部が始まってまずはライトニングスピーチから。野田さんは岸田賞の選考があったことに触れつつ、オンラインだけで上演された言葉は空間を意識していないことがあると指摘した。演劇のために書かれた言葉と、映像のために書かれた言葉の境界が曖昧になっていくと。その言葉がどんな空間で発するためのものなのか、というのはこれまで意識したことがなかった。あとから見返せるアーカイブ配信の有無にもよるけれど、配信が前提となったときに一回性は大きく薄らぐだろうというのは感じていて、視聴者が任意のセリフを好きなだけ聞き返せるようになったというのを作り手側はどう捉えているのだろうかと思っている段階だった。野田さんの観点はそういうことではなく、最前列から最後列まで異なる距離を持つ観客たちにどうやって言葉を届けるかとか、あるいはさまざまある劇場の形の中でどんな言葉を響かせるかとか、ものすごく平たく表現するとそういうことなのだと思うけれど、それが脚本の時点で考慮されていて読めば分かるというのは想像していなかった。今後配信オンリーの作品を観るときは自分の引き出しにしたいところだし、劇場に出かけたなら生で鼓膜が震える感覚を感情的に捉えるんじゃなく、空間に居合わせた者として自覚的に聞けるようになりたい。
 
松田さんはお客さんからの声として定点映像がほしいという要望があると明かし、野田さんも映像にするにあたっての自分以外の演出が介在しない引きの画がほしいと話す。自分もテニミュにはまっていた頃は円盤に収録される全景映像をありがたく思っていた。カメラワークって外からの演出であるわりにははっきり前面に出てくるよなというのも納得。でも、全景映像がどんな価値を持つかというのは、作り手だったり、日ごろから観劇を楽しんでいたりする、すでに舞台の側に寄り添っている人に向けた話だと思う。配信をきっかけにはじめて舞台を観る層にとっては全景がどうこうってあまり興味がないことなんじゃないか。映像の面白さはすでに知っていて、でも舞台はよく知らないっていう人がきっとたくさんいるし、その中からこういう機会に観てくれている人がいると思いたい。そういう人に狙いを定めて、映像的な魅力を取り込みつつ舞台へようこそ!って呼び込むような配信があってもいいんじゃないかと最近は考えています。これから先、舞台を観ることが普通になるかもしれない人にアピールできる、映像として強い配信があったらいいのかなと。このあたりについては「キンキーブーツ」の上演を観たときに強まったものだったりする。
 
それに関連して、溝端さんはオンラインになったときにそれを無料で見ようとする人が圧倒的に多くなるということを指摘していた。文化はただじゃない、それはそうだけれども、お金を払う人たちのためだけじゃない文化をきっかけとして有効だと思ってもいいじゃないかと。たくさんある中から好きなものを選んで何でも観られるサブスクのしくみに慣れてしまうと、何千円かを払ったらリアルタイムの配信と1週間後までのアーカイブが視聴できます、という買い方の映像は選択肢の中にはもう入らない。これはすごく身につまされる話で、契約中の映像配信サービスで追加の支払いが発生しなければ観たいけどな、なんて都合のいいことを思って結局観ないものが自分にもあったりする。舞台が趣味でも無料じゃないと観ない可能性あるよ、と言いたいわけじゃないけれど。逆にサブスクの選択肢の中に舞台の映像が食い込めたらそれだけで観る人が増えるということでもあって、その点4/1からNetflixで『髑髏城の七人』が配信されるのはすごく期待しているし、これまでさんざんゲキ×シネの機会を逃してきた自分としても今度は絶対観ようと思っている。(こういう取り組みをしているのは劇団☆新感線だけではないが、直近のビッグニュースとして印象的だったので挙げました)(と書くにあたって調べたら、既に2011年版の髑髏城と『蛮幽鬼』がNetflixで配信されていることに気付いた…)
 
終盤の質問コーナーで、リアルタイムで配信される公演映像を観るのと、アーカイブ映像を観るのとではどんな違いがあるかという質問が出ていた。松田さんからは、スポーツの試合を観るときの感覚にも触れつつ、空間は共有できないけど同じ時間を共有することができるのがリアタイ、という答えが。また、野田さんからはライブ感の希薄な映像配信では意図的にセリフを間違えたほうがリアリティがあるかもと冗談めかしたコメントがあったりもした。これについて、個人的には今のところ2種類の視聴にはぜんぜん差を感じられなくて、それよりも無観客か有観客かという条件のほうがはるかに大きく影響していると思う。時間と空間の両方を共有できなかったとしても、その場に自分のリアクションを仮託できる観客がいれば、ある程度までの満足感は得られている気がする。逆に無観客だと舞台上から与えられるばかりの一方通行であることが際立って寂しくなってしまう。
 
本筋とはまったく関係ないのだが、1点どうしても気になったところがあったため書いておく。松田さんが大学等で講義をすると、初めて観た舞台は生ではなく映像だったと答える聴講者が多いのだという。これにすごく驚いた。自分は、地方公演がやってくる都市まで新幹線で2時間ちょっと、夜公演の終演後には終電が終わっていて日帰りなら夜行バスで帰らないといけないようなそこそこの田舎の出身だ。自力で演劇にアクセスしようとしたらかなりパワーがいる場所だった。けれど、小中学校の体育館に劇団を呼んでみんなで演劇を観るという授業が小3くらいからずっとあった。なんなら高校では市民ホールを貸しきってミュージカルを観た。それが普通だったから、こういう授業って今はもうないんだろうか?と思ったのでした。そういうのはあるけどカウントしないスタンスなのか、あるいはもっと小さい頃から映像で舞台を観ていたのか、いろいろな前提は考えられるけど、もしそれが地元の市なり県なりの独自の施策だったら、おかげで地方都市に住んでいても舞台を観るという行動がまあまああり得るものとしてインプットされたことをすごくありがたいと思ったのだった。
 
今回のシンポジウムの視聴動機として、作り手側の中には舞台の映像配信という形式に対する何らかの答えがあるんじゃないかという思いがあった。実際は登壇者の方たちにもそれはまだ定まっていなくて、これから継続的に考えていくことなのだとわかった。今後また考えが変わったら書き残すようにする。そのためにはまず配信で舞台を観ないといけないんだけど、ライビュが併催されてたら絶対映画館に行っちゃうんだよね…。