今もう一度舞台化することの答えがすべてここにある/舞台「風が強く吹いている」を観た

『風が強く吹いている』の再舞台化が発表された時は嬉しさと驚きでいっぱいだった。わたしにとって風強は特大の思い入れがある作品だ。中学生のときに原作を読み、それを発端にしてめぐりめぐって関東の大学に進学することを決めたからだ。大学に入ったらきっとハイジさんみたいな先輩に出会って彼がわたしを導いてくれることだろうと夢想した。実際そんな先輩はいなかったのだが。とにかくそんな大切な作品が舞台化されるのは嬉しい。しかし既に舞台はやっているじゃないか、とも思った。体感としてはアニメのすぐあとだったから、2.5次元寄りにしてアニメキャストから何人か抜擢したりするのだろうかとも予想したりもした。とにかく2009年のアトリエ・ダンカン版との差別化をどうするかというのに勝手に頭を悩ませていた。
わたしが思う風強の最大の見せ場は各人が箱根駅伝を走っている間の心情吐露だ。それを最大限に表現できるストーリーと演出を組み立てたいとわたしの頭の中の演出家は考えた。もちろん走るという行為の魅力も欠かせない要素ではあるが、それを舞台上で表現する方法はどうにかして実際に舞台上を走る以外思いつかず、しかしながらルームランナーはもう使えない。巨大な劇場を押さえるならまだしも、限られたスペースの板の上を走っても迫力に欠ける。それに、走行シーンを再現して視覚的な強さをもって見せるという意味では映画には勝てないのではないか。そういう判断でわたしの頭の中の演出家は「走る」を切り捨ててモノローグに全振りしたのだったが、今考えてみるとそれは朗読劇だ。舞台ではない。
また、自分の好きな作品が舞台化することへの怖さもあった。果たして風強を大事にしてくれるのか?という作品への思いから来る不安と、舞台作品として面白く仕上げてくれるのか?という舞台ファンの立場からの不安の両方があった。小説を読み返してから観に行こうか迷ったが、もしそれによって原作との違いを強く感じてしまったらどうしようと、結局読まずに劇場へ向かった(シンプルに忙しくて何もできなかったのもあるが)。
結論から言うと、あらゆるネガティブな気持ちはすべて杞憂だった。今このときにもう一度『風が強く吹いている』を舞台化する意義を、押し付けがましくなく、しかしはっきりと主張した最高の演出だった。

まず最初におやと思ったのは登場人物の設定変更である。カケルがアオタケを初めて訪れるシーンで住人たちの紹介が入るわけだが、キングがクイズ王ではなく小説家志望の雑学王になっていて仰天した。これまでのメディア化でもキングは回答ボタンのついた帽子を被ってみたり関西人になってみたり濃い味付けを足されることの多い人物ではあったが、随分大きい路線変更だ。この変更はまず彼の就職活動の行き詰まり具合を具体化した。そして小説は好きだが実は書き切ったことがないと8区を走る間に吐露され、誰とも深くかかわりあえないがそれでいてひとりで何かを達成することもできなかったという状況が明確になった。それゆえにみんなで成し遂げる夢への彼の思いをいっそう強めている。
次に大きな変更がみられたのは王子だ。もともとは運動嫌いのマンガオタクという設定だったが、ゲーム配信者に変わっていた。いかにも2021年。マンガよりゲームに熱中するほうが今っぽいからかな、程度に受け入れていたが、負けず嫌いで注目に慣れているという性格が語られて、単に時代感をマッチさせるだけの修正ではないということがわかった。
時代感というと、5区での神童の体調不良が高熱ではなく片頭痛になっていたのは時節柄、不用意に観客の注意を奪いかねない症状を回避したものと考えている。現実世界と切り離すことのできない舞台では物理的な感染対策のほかにも様々な配慮がされていることだろう。それを乗り越えて今日上演してくれている、有り難いことだ。

人物の在り方という点では、カケルとハイジの二人をどのように立たせるかによって風強は大きく印象を変えてしまう。
蔵原走については、わたしの中では映画版の林くんが既に正解を出していた。孤高の天才ランナーであるカケルを観客に納得させるだけの鋭さと儚さ、本物の学生ランナーと見劣りしないまでに作り込まれた身体と走りへの適正、当時まだ未成年であった真実の若さ。あれこそが蔵原走だと思い込んできた。しかし、それらだけがカケルを形作る要素ではない。今回のカケルはこれまでのメディア化ではあまり拾われなかった(とわたしは思っている)高校卒業したての幼さがよく捉えられていると感じた。
尺の都合もあるとは思うが、王子が17分を切った日の夜に周囲と衝突するまで大きな反発を見せないことに、新入りの1年として小さく収まる少年っぽさがあった。原作で藤岡に向けられていた強烈な意識をあまりなぞらず、シンプルな尊敬だけを残すあたりにもそのような印象を感じた。(話は逸れるがパ……藤岡も、大学陸上界きっての長距離ランナーで、学生とは思えぬカリスマ性を持つ人物であるということを磨き上げられた身体で表現していて素晴らしかった。身体の仕上がりに強大な説得力があった。)
極めつけは復路のゴールに向かってくるハイジを見る表情だ。泣きそうな顔をしていた。泣いていたかもしれない。清瀬灰二が痛みを感じていることに耐えられないといったような優しくて脆い表情で、ああこの子はまだ19歳の子どもなんだと唐突に思った。フィクションを受け取るときのわたしにありがちなバイアスに、主人公の視点を自分と同等のものと見てしまうというのがある。特に風強は子どものときに読んでいたために、カケルの未熟さを感知することはあっても幼いと思うことがなかったから、初めてそこまで視野が広げられた。堂本さんのよく通る素直な響きの声も少年からまだ青年に移行しきっていない微妙な時期にあるカケルによく合っていたと思う。今までよく見えていなかったカケルのかわいらしさや、周りに愛される性質に気付かせてくれた。カケル、愛い。

一方のハイジさんは、飄々として掴みどころのない大人であり、走りを追及する情熱はカケルよりはるかに成熟している。アオタケメンバーを適切に導く神様のような存在であり、それでいてチャーミングなところや弱いところやずるいところが作中でしっかり描かれていて、人間の面白さを結集したような人だ。わたしにとってはあらゆる小説の登場人物のうちでいちばんの存在、ものすごく平たく言ってしまえば好きな人だ。これまでのメディア化でそれぞれ気に入っている点は山ほどあるが、でもハイジさんだけは原作がいちばんなのよ…と思ってきた。よくない点があるとか解釈を違えているとかではなく、とにかく原作の清瀬灰二をむやみやたらと愛していた。そらでカケルを想像するときは林くんっぽい青年が出てきていたが、灰二さんには具体的な顔がなかった。面影だけの存在だった。だって小説に顔は書かれていないから。
それが今日松田ハイジによって定まった。わたしの想像していたハイジさんってそういえばこの人だったなと遡って納得した。あまりの衝撃でしばらくぶりにキャストブロマイドを買ってしまった。長年憧れてきた先輩のブロマイドが合法的に購入できる空間に放り込まれたら誰だって動揺するというもの。これがもともと好きだった作品が舞台化される魔力なのか。ハイジサンカッコイイ…。
もちろんビジュアルだけの話ではない。今回の脚本では、前半のアオタケメンバーのやりとりが大幅に整理されている。確か2009年版ではアオタケ内での出来事を中心に描いていて箱根までのメンバーの会話は比較的多かったと思うのだが(最後に観たのが6〜7年前なので違っていたらすみません)、今回は初回練習や予選会でも走るシーンがあり、どちらかというとそこに時間を割く構成になっている。必要不可欠なターニングポイントだけが残されたことによって、ハイジさんがカケルを酢の物責めにしたり、運転が下手くそと揶揄されたり、練習と寮と部の運営すべてをこなしてぶっ倒れたりという描写がなくなっている。それでいてハイジさんの魅力は損なわれない。原作で細かく描かれるエピソードはハイジさんを補強するものでしかなく、たとえそれがなくなったとしてもハイジさんがハイジさんとして立っている限り彼は彼なのだ。松田さんはエピソードに頼らず清瀬灰二として強固に存在していた。予選会での「あの走りを見てくれ!」のくだりが本当に好きで、底の見えないときもあるけど本質的には熱い人間なのだというのが1幕の内に、しかもすごくしっくりいくお芝居で示されて、ぼろぼろ泣いてしまった。あそこで完全に松田ハイジを信頼した。俳優と脚本と演出が噛み合って、清瀬灰二の熱情として成立していた。

やりとりの整理、と表現したが、心底感動した構成変更があったので触れておきたい。万引きをしたカケルが自転車のハイジから逃げるシーンがある。原作ではプロローグにあたる二人の邂逅の場面だ。ここでハイジはカケルに光を見るわけだが、ここがカケル視点のみでさらっと流されたので声を上げそうになった。このシーン、アニメの演出が神がかり的によくて、ハイジさんにはカケルがこんなふうな流星に見えていたんだ、これは他のメデォアでは表現できなかったこと、アニメ化してくれて本当によかったなと思ったものだった。それがいきなりなくなっていて、まさかここをカットしてしまうようなポンコツ脚本なのか!?と失礼にも思ったのだが、違った。10区のハイジさんの語りの中に移動していただけだった。高ぶったセリフのつらなりの中に入れ込まれた光との出会いは、風強を知ってから何年も経った今の自分を新鮮に突き刺した。本当に素晴らしい構成だ…。

構成といえば、なかなか客席でリアクションの取りにくい昨今において、拍手で応えていい時間を設けてくれるのはありがたかった。予選会前の後援会のみなさんとのくだりである。われわれは後援会の一員として寛政大学陸上競技部に拍手を送ることができるのだ。カーテンコールでも拍手はできるけど、作品にちょっぴりだけ参加できるのって楽しい。ところで拍手の締めでいきなりぶち込まれたいいとものパン!パパパン!の拍手、若い人は初見で対応できるんでしょうか? ゴリゴリの平成仕草ではないのか。わたしは余裕でしたが…。

最後になるが、この舞台の白眉は走りの表現だ。舞台上の奥が高く、手前に向かって低くなるゆるやかな傾斜のついた状態になっていて、その上で前進・後退・足踏みを使い分けて実際に走ることで走行シーンを再現する。シンプルではあるが、ここに照明と音楽、それに体の方向転換により仮想カメラのカメラワークとでも言うべきものがつくと、迫力が違う。予選会で寛政と他大学ランナーたちが出走するシーンは大人数のフォーメーションも加わって圧倒された。箱根本戦では実況アナウンサーが盛り上げてくれたし、アンサンブルとの掛け合いで追い抜きを明確に示してくれることで駅伝の独特な展開も理解しやすかったと思う。何といっても、実際に足踏みすることでとりわけ集団走の足音がリアルに聞こえてくる。鳥肌が立った。
タイトル以外でとりたてて映像を使うことなく、照明のみが展開にあわせて実直にドラマチックさを演出していたのは好ましかった。舞台上方のライトが回転して客席の前から後ろへくるっと強い光が通り過ぎていくあれ、名称が判らないのだがあれがすごくいい。音楽は、解像度が異様に低下するけどどれもめちゃくちゃかっこよかった。
六行会ホールに行くのが初めてだったのですが、奥行きがあんなに取れる劇場なんですね。おそらく手前の紗幕と奥の暗幕の二段階で、場面に合わせて奥行きを調整していたと思うのだが、シンプルなセット・装置で走行シーンとアオタケを自在に行き来していて唸った。傾斜のある部分のさらに手前、客席に最も近いフラットなところが余白としてあって、そこに降ることをトリガーに走り終えたりモノローグに入ったりしていたのもすごくよかった。多種多様のドラマをはらんだ走りを舞台で見せるのは難しいだろうと諦めていた自分が恥ずかしい。圧巻だった。

こんなに素晴らしい演出で大好きな作品を大好きな舞台にしてもらえて幸せだ。風強は今年で単行本出版15周年だという。こんなに年月が経ってもなお新鮮な解釈と演出で作品に出会い直せるということに感謝しかない。あと2公演、どうか無事に走り抜けてください。