2022年2月の記憶

月次ブログ、忘れてたわけじゃないんだけど着手が遅くなった上に書いても書いても終わらなくて月末に間に合わなかった。まだ2ヶ月目なのに。


観劇ツイートは4本分。(劇場版刀ステは観劇にカウントするルール)

 

 

 

 

それから、劇団かもめんたるの「S.ストーリーズ vol.1」も配信で視聴した。なぜ何もリアクションしなかったかというと、最後まで観られなかったからだ。
2019年5月の「宇宙人はクラゲが嫌い」を観ていて、例によって具体的な記憶は残っていないものの、つまらなかったとは思わなかったはずだった。それで気軽に配信を買った。だが今回はとにかく方向性が合わなかった。オムニバス形式の1作目で「おかま」という単語を何の含みもなくただ使っていた(ように感じた)時点で察するところだったが、全体的に笑えなかった。強い言葉を使えば不快感を覚えたので、Youtuberと喫茶店店主たちの話の途中で停止した。

そのあとに同じく配信で観たホスミュも面白くはなかったというのが正直なところで、配信を買うことについて少し悩んだ2月だった。現地で観劇して面白くなかったときは面白くない作品を観劇したという経験が残るが、配信を買って面白くなかったときはなぜこれにお金を払ったのだろうという空しさが残る。家で映像を見るだけならいくらでも楽しめるコンテンツがあふれているじゃないかという思いだ。観劇の分類ではなくYoutubeNetflixと同列の映像コンテンツとみなしている節がある。
ただ、配信視聴を選ぶときの理由が再生開始時点のモチベーションに大きく影響しているというのはあるだろう。今のところ選択の理由は主に二つあって、ひとつはチケットが取れなかったり予定が合わせられなかったりして現地に行けなかった場合。もうひとつは元々現地に行く予定はなく映像でいいかと妥協したり、後から配信の存在を知ってアーカイブを買った場合。前者だったら当然かぶりついて観るし、後者はそこまでかしこまっては観ない。俄然観たい!という気持ちでなくても観られる状況になったことで、「面白くなかった」と断ずるハードルが下がってしまっているのだと思う。

配信については考えていたことがもう1点ある。配信で観れば現地に行くよりはるかに時間的・体力的負荷が下がる。それによって「頑張ればもっと観れたんじゃないか」という焦りが生まれはじめている。例えば、今月はNODA・MAPのフェイクスピアが配信されていた。どう考えても観るべきだったのだが、配信の存在に気付いたときには既にゆっくり時間の取れる休日は残されていなかった。無理をすれば平日に時間を作ることはできたし、外で1本観て帰ってから配信を観るというのも不可能ではなかった。自分が頑張らなかったから観られなかったんだと思うのに十分だった。
観られたかもしれないけど観なかった作品に対して過剰に後悔する必要はないし、「観られる」は「観なくてはいけない」ではない。そのあたりは割り切らないといっそう配信を楽しめなくなりそうな予感がある。あまり思いつめず、これは現地で観たかった!とポジティブに悔しがれる作品に出会えるように配信を活用していきたいところ。

今年になって、観劇したらTwitterでリアクションをするというルールを作った結果、特に言いたいことがないけれど何か呟かなくてはいけないという状況が生まれた。2月になってようやくそれに気付いた。ネガティブな文脈で重ねて登場させて申し訳ないが、前掲のホスミュの感想は直接的な批判を避けようとするあまりほとんど中身がないし、ジョ伝を見終わった後は「長谷部…………」と虚空に向かって呟くしかできなかったためあのざまだ。
特に悩ましいのはつまらなかったときである。今日びいろいろな人がいろいろな目的でエゴサを繰り広げるTwitterにおいて、不用意に人を傷つけるかもしれないあけすけな悪口を垂れ流すことにはさすがに抵抗がある(鍵アカでは好きにさせてもらっているけど)。作品にとって意味のある批評に仕立て上げられればよいが、そういう気持ちにすらなれない日が絶対に訪れる。観た!を表明するのは続けるとしても、そういうときにどうしたいかを改めて考える必要がある。

そんなタイミングで、「鶴かもしれない2022」に際しての小沢さんと徳永さんの対談を読んだ。

epochman.com


その中から、徳永さんの発言を引用する。

私からすると、つまらないと思った作品に正直にダメだったと書いた場合と、本当は言いたいことがあるのに忖度が働いて正直に書けなかった場合では、その後、相手の方にあっけらかんと会えるのは前者なんですね。それまでどんなにいい関係が築けていても、面白くなかった作品を面白かったと書いてしまったら、もうその人と目を見て話せなくなる。


自分は演劇の側にいる人間じゃないから、実際に作品を作った人とのかかわりは発生しないけど、作品そのものへのしこりを残さないようにしたい、ダメなときははっきり書けるようにしたいな、とこの対談を読んで思ったのだった。個人的にも毎回べた褒めしてる人より批判もする人の方が信頼できるし。
「鶴かもしれない」はめちゃくちゃ面白かったので再演があればぜひ観てほしい。推し(若手俳優)にずぶずぶだったころの自分の感想が聞きたい。ダブステもそうだけど、演劇の面白さってこう!と無自覚に思い込んでいるその面白さというものの範囲を拡張してくれる作品に出会うことは、最大の幸福のひとつだ。

最後に映画の感想を少し書いておく。

観よう観ようと思っていた「前科者」をようやく観に行けた。もっと硬派なトーンを想像していたからエンタメ色が強くて困惑した。若い女性(女性に限らずではあるが)が知らない男性の自宅を一人で訪ねるというシチュエーション、過敏なのかもしれないが現代日本のリアリティが感じられなかった。確かに自宅に行かねばつながらないストーリーだけども。それから、どう考えても不要なラブシーンがあったのには幻滅。恋愛要素がなくても観客は前科者と保護司という間柄に十分没入できるし、もっと信頼してくれても……という気持ちがないでもないが、恋愛込みのエンタメとして作っているならわたしの期待がずれていたのかもしれない。

楽しみにしていた「ウエスト・サイド・ストーリー」も観に行った。キャストがすごかったから吹替で観たかったのだが、どうしても時間が合わず字幕で。そもそも普段洋画を観ないから吹替の需要と供給がよくわからないんだけど、吹替の上映一瞬で終わりませんでした?どの作品もこんなもの? 
恥ずかしながらどんな話か一切知らず、曲もTonightしか聞いたことがないという理解度だったものの、スクリーンをただ見つめているだけで面白かった。街と人と衣装とパフォーマンスが全部溶け合ってひとつの画になる。最高峰のミュージカル映画とはこういうもののことを言うのだろうと思った。


他にも刀剣乱舞に出戻りした話や若手俳優についての続報、2.5次元観すぎ問題などトピックはあったが、今月はここまで。3月末まで記憶が持つことを祈る。

……よく考えればこの3つはほぼ同じ話じゃないか?