このままずっとお客さんだったらどうしよう、という恐怖

子どもの頃は火事や地震が怖かった。
小学校の低学年くらいだったと思う。リビングにいる母におやすみを言って自室に戻り、ベッドに寝転んで目を閉じると決まって、家が燃えてなくなったらどうしようとか、物が倒れて家族が下敷きになってしまったらどうしようとか、心配しても仕方のないことが止めどなく浮かんできた。
学年が上がるにつれてそうした空想はしなくなっていったが、自分ではどうしようもできないことが起こるのが怖かった。

二十歳を超えてからは少しずつ別のことを怖いと思うようになった。
10代の後半は、楽器を弾いたり、映像を撮ったり、何かを書いたりすることに多くの時間を使っていた。楽器と映像は上京を機に離れてしまったが、書くことは縁あってしばらく続けていた。今思い出しても誇らしい気持ちになれる言葉をかけてもらったことがあったし、自分にとってかけがえのない自作がいくつかあった。いつか自分で自分の本が作りたくて、そういう勉強や手伝いをしたりもしたけど、いつの間にかやめてしまった。個人での出版は一度もしなかった。これからもしないだろう。
やめたこと自体はなんとも思っていなかった、とまではいかないものの、やはりそういう向きの人間ではなかったんだなと少し切なく思ったくらいだった。しかし表現することをまったくしないで暮らしているうちに、だんだんと怖くなってきた。

このままずっと、死ぬまで、誰かの作品を完全なるお客さんとして眺めるだけの人生だったらどうしよう。
アウトプットをまったく行わないことによって、自分が何を考えているのか、そもそも思考しているのかどうかがわからなくなっていった。何かを深く考えることができずに終わりが来るんじゃないかという予感に寒気がした。

いつからその恐怖が薄らいでいったのかはよく覚えていないが、何がきっかけになったかはわかる。推しに感想の手紙を書くことだ。はじめは数行だったものが、続けているうちに書きたいことがあふれてだんだん伸びていった。推しにしてみたら手紙なんて、適度にコンパクトなほうがよかったかもしれないけれど。
推しに熱中していた当時はそれどころではなかったが、振り返ってみれば感想を受け取ってくれる相手がいることで自分がどんな観客であるかを自分自身に示せていたのだと思う。立派な作者・表現者になれなくても、書くことで考えを示すことができると知った。自分が絶えず頭を動かし、自分自身の考えを持っていることを思い出せた。

今は誰にもファンレターを書かない生活をしている。その代わりにブログがある。推しではなく、この先の自分が目を通してくれるなんでもノートだ。はじめたときはそういう意図ではなかったものの、ここに置いておけばいつか読み返すという確信は、思いのほか心強いものがある。
完璧な出来でないことを自分に許して無闇に追い詰めないようにしてはいるが、一人前に欲はある。もっと早く文章がまとまったらいいのに。自分が好きなトーンの文体で統一できたらいいのに。思ったことが途中で文章に飲み込まれることなく、そっくりそのまま表せたらいいのに。そして誰かひとりでも、自分以外の他者が読んでくれたらどんなにいいだろうかと想像する。

叶えたいことすら持っている。死ぬまでに一度でいいからこれを実現したいということを。友達にこっそり話したら、さすがに壮大すぎると困った顔をされた。自分でもそう思う。だから今日はしまっておく。少しでも思い通りの言葉が出てくるように、黙って書き続けることにする。

 

とはいえ今月この記事が1本目なんだけどね…。