映画「カラオケ行こ!」雑感

映画「カラオケ行こ!」はもうご覧になりましたか。
これが本当に素晴らしい青春映画で、もちろん原作の面白さは既に人口膾炙といったところであろうけれども、原作にもキャストにもそんなに思い入れのない人間が観ても特筆すべき快作だったということを書きたい。

 

まず最初に感じたのは、なんてお手本のような構成なのだろうということ。
ここでこれがあったからあそこでこれがこう変化して…みたいな対応関係が、後から思い返して検討するまでもなく、スクリーンに映像が映し出されるそばからどんどん分かっていく。
要素と要素の関係性、演出の意図、そこから抱いてほしい感情がどんなものか。それらが分かりやすすぎる作品というのは間違いなく退屈と言っていい。
けれども、本作は模範的な手法を堂々と繰り出しながら、
聡実くんと狂児のチャーミングさによって、2人の関係や顛末をユニークで何にも代えがたい特別なものにしている。

 

主要人物2人についてすぐに逆のことを言うけれど、今作の面白さはキャラクター性によりかかる類いのものとは一線を画している。
彼らの魅力が本作の面白さの根幹にあることは間違いがないのだが、可愛い人物造形に助けられて飽きないということではまったくない。

今作に引き込まれる理由の一つは、距離や空間による二人の関係性の表現だ。

まず、聡実くんと狂児の物理的な距離。
会ったばかりの人間に一方的に距離を詰められる怖さ。逆に別の恐怖から逃れるために自主的に距離を詰めてしまう慣れ。適正な距離を保てているときの心の穏やかさ、などが映画の初めから終わりまで丁寧に切り取られている。
これもあからさまと言ってしまえばそうなのだけど、愚直に距離を見せ続けて、距離で関係性を雄弁に語るというのは、身体のさまを見せられる実写映画ならではの訴求ポイントだと思う。

 

空間という点では、破門された宇宙人に聡実くんが絡まれた後の屋上のシーンが白眉だと思っている。
気持ちの上では白眉とかかしこまった言葉ではぜんぜん足りない、めちゃくちゃ好きなシーンだ。
ここで交わされる二人の会話の大筋は、タイミングの調整はありつつも、内容自体はほとんど原作を踏襲している。
シチュエーションがカラオケボックスないし狂児の車内から、ちょっとしたビルの屋上に変わっているだけだ。

だが、これが何よりも大きい。
カラオケボックスも車内も密室だ。ここに至るまでの二人はほとんど世界から隔離された状態で親交を深めていた。
青空の下、自販機の缶を飲みながら冗談を言って笑い合う聡実くんと狂児は、まるで普通の友達のようにも見える。
密室で対峙してきた異物であるところの狂児が、聡実くんが生きている現実世界に同化して、当たり前に存在している。
そう錯覚させるような、明るさとほんの少しの切なさに満ちたシーンだ。

 

屋上でのやり取りを見て狂児が聡実くんの生活に根付いたという印象になるのは、彼の生活の肉付けが丁寧に行われているからでもある。
その要因は、何となくごちゃついた状態がそのまま定着した感のある実家の美術でもあるし、映画の完全オリジナル要素として登場する「映画を見る部」への聡実くんの収まり具合の演出でもあるが、やはり最も大きいのは合唱部での様子だと思う。

和田という2年の後輩が本当にいいキャラをしている。聡実くんと狂児を除いたら一番好きだ。
一見、他の部員と比べて合唱に対する熱意が大きくて、それが原因で部内にごたごたを引き起こしている和田。
だが、この子が聡実くんを先輩として尊敬しているという点が、部活の問題を何も知らない狂児に茶化された聡実くんが爆発するシーンとつながってくる。
作中で切り取られた時間軸での聡実くんは、声変わりによって合唱との関わり方を見失っているけれど、それまでは部長として本気で打ち込んでいて、だから和田みたいな子に好かれているのだ。
和田の存在が、過去の聡実くんの様子を想像させてくれる。

 

今作では、合唱部の本来の顧問が産休・育休のため不在で、ももちゃん先生という若い教師が代理で指導に当たっている。
ももちゃんは、合唱コンクールで金賞を取れなかった理由を聞かれて、愛が足りなかったのだと答える。その抽象的で精神論的な答えに、部員たちはお花畑だと笑うのだが、聡実くんにとってはそれだけでは終わらない。
彼女の口から飛び出した愛というキーワードは、聡実くんと狂児の関係性の変化に対する明確な、明確過ぎるほどの布石となっていく。
けれども、彼女は単純に愛という概念を聡実くんにもたらす役割のためだけに登場したのではない。

和田はももちゃん先生の態度に強く反発する。本来の顧問の先生は、もっと具体的な指導をしていたのだろう。
それを踏まえると、聡実くんが具体的な言葉でカラオケのコツをアドバイスできるのも、その顧問の下でしっかり部長をやっていた賜物なのだと分かってくる。

生活の肉付けとは言ったものの、ストーリーを補強するための単一用途で原作要素を膨らませたり、追加要素を生み出したりしているのではない。
聡実くんという人物を形作った世界の描写をより緻密にしていくというアプローチなのだ。

 

聡実くんの世界に対して、明確に新しく描き込まれたのが死という概念の経験値だ。
先ほど「映画を見る部」に聡実くんがフィットしているという点について軽く触れたが、部長の栗山の他にも、聡実くんをこの部に迎え入れてくれた人物がいる。
部の設立当初に顧問をしていた先生だ。しかし、この人は既に亡くなっているという。
細かい人物像への言及はないのだが、壊れかけのビデオデッキやモノクロ映画のVHSを個人で大事に所有しているほどには映画好きで、幽霊部員を許可してくれる柔軟な先生だったのかなと想像する。

15才なら、身近な人の死を一度も経験していない可能性もあるだろう。
原作では聡実くんと死との距離を推し測れる情報はなく、どちらとも言えない。
今作ではその点をはっきりとさせ、それなりに交流があったであろう教師を亡くしていることが明言されている。
狂児が地獄へ行ったとき、聡実くんは強い実感を持って、この先の狂児の不在を想像したはずだ。
よくしてくれた先生に二度と会うことができなくなったという経験が、その喪失感を生々しく浮き立たせたに違いない。

 

ここまで特に素晴らしいと思った点についていくつか言及してきたが、それらの共通点として、ベタであるということが言えると思う。
最初から最後まで、一貫して素直なアプローチで作られた青春映画なのだ。
二人の距離で関係の変化を表すのも、普段の生活を描き込んでイレギュラーである狂児と対比するのも、目新しい手法ではない。
出会いの瞬間に雷が落ちたり、焼き鮭の皮の受け渡しがスローモーションで強調されるたりするのもまさしくベタである。
そういう要素をこんなにも積み重ねているのに総合的な印象がベタだなあ…で終わらないのは、この作品が聡実くんの視点で描かれているから。
ベタであることによって、聡実くんの幼さや無垢な部分が補強されている。
素直に描けば描くほど、聡実くんが輝くんです。