「PERFECT DAYS」雑感

 

20180929.hatenablog.com

 

これを書いたときからずっと、スクリーンに映し出されるべき身体の理想形の一つに役所広司があると思っている。憧れとか、崇拝に近いトーンで。「PERFECT DAYS」に対しても、非常に近しい印象を持った。具体的に言葉にするなら、平山と同じように(つまり、振る舞いだけでなく身体も同じくして)世界と関わりを持ちたいと思った。

 

世界に対して(もしくは、現代日本についてというべきなのかもしれない)、好意的で楽観的すぎる扱いをしている、という気配は何となく感じる。社会のうまくいっていない部分を視界にはっきりと捉えながらも批判性が薄く、どちらかというとうまくいっていない側に分類されるのであろう平山の生活を、フィクショナルに美化している。

でも本当にごめん、それについてしっかり咀嚼して踏み込むための気力がどうしても持てない。触れるだけに留めて、話を戻す。

 

平山と同じようになりたいと思ったという話だった。平山は裕福ではない。偏見を持たれやすい仕事をしている。配偶者も同居人もいない暮らし。仕事の後輩などにはてらいもなく、寂しくないんですか?と聞かれてしまう。確かにはじめは似たような印象を持った。

けれども、平山の生活を傍観していくうちに、彼に親しみを覚えている人間がいくらでもいることが分かってくる。平山の判で押したような繰り返しの日々の中で、その繰り返しによって彼を認識し、心を寄せてくれたのだろう人たち。超のつく無口である平山だが、周囲の人々に対する関心が高く、その関心を人好きのする素振りで瞬時に表に出すことができる。それが、平山に惹きつけられる理由だ。

「すばらしき世界」での役所広司の身体は、もっとエネルギッシュで、物理的な強靭さに向けられていたように記憶している。けれども今作では、内に秘めたなつっこさを過不足なく出力する、人たらしの身体として存在していた。たとえば表情などは身体性というよりも芝居の範疇に入るのかもしれないが、その出力の根源に確かに役所の肉体があると感じさせるような。

初めは彼のさびしい暮らしに親近感を持っていた。けれども作中の時間が進むにつれて、平山という人間は彼しか生きることの叶わない稀有な肉体とそこに宿る魂、それらをひっくるめた人生を総合した存在であるということがわかる。ルーティーンに支配された孤独な生活に対して感じた親近感は、すっかり憧憬へと変わってしまう。そしてそれは、平山という人物を貫通して、役所広司という俳優へと到達する。

作品そのものが、平山と役所に対する憧れをはらんだ視線を持っているようにも思った。

 

長尺で平山の表情を切り取ったラストシーンで、不思議と泣いていた。

いつものカセットテープをかけ、早朝の高速道路を運転するそれだけの場面で、役所広司の表情は絶え間なく、複雑に移ろう。出来事に反応するのではなく、自発的に。それは笑っているようでも、苦々しく何かを回顧しているようでもあり、目の縁の赤さは泣いているようにも見える。このような短い文章ではとても描写しきれないその変遷は、彼が生きてきた半生そのものに対する彼の感情のようにも思われる。

と、このままエンドロールに入るのではないかと予感させるほどの長い長いカットが途切れ、平山の運転する車が朝焼けに真正面に向かって走行していることが引きで映し出される。眩しいときの顔だったのか、と腑に落ちると同時に、平山はいつも眩しげに世界と触れ合っていたのか、とぼんやりと思う。