再演が気付かせてくれたこと/舞台「風が強く吹いている」2023に寄せて

 

0.

まず初めに言っておかなくてはいけないことは、個人的には今年の再演を素晴らしいとは思わなかったということだ。すべてを褒めたたえる感想を探している人は読まないでほしい。なぜそのようなことをわざわざ書くかというと、2021年版をべた褒めした経緯があるからだ。

 

20180929.hatenablog.com

 

もしこの作品が年に何作か観る原作もののひとつでしかなかったとしたら、Twitterでリアクションを取った時点で終わりにしていい。だが、自分にとって風強はそうではない。だから、また最高の状態で再々演されることを心から期待して、何がよくないと思ったのかと、その上で新たに発見できた舞台化する意味について書いていく。


1-1.

再演の劇場が決まったときからひとつ懸念があった。前回の六行会ホールは248席。それに対して今回のシアター1010は2階席含め701席を有する。劇場の規模があまりにも違いすぎる。

広大なスペースがなくても風強という作品の魅力を十分に見せられるということは既に証明されていた。むしろ、あの演出をどう拡張すれば劇場にフィットするのかの方が悩ましい。それでも、ある種演出の力の見せ所ともいえる差異は、楽しみでもあった。

しかし幕が開いてみれば、自分の目にはシアター1010の広さに対応できているようには見えなかった。

全体を通してアオタケが最も違和感の大きい場所だった。舞台の幅をめいっぱい使っているせいで、室内がものすごく広いのだ。10人が揃って座っても、埋まりようのない空間がそこにあった。転換の問題もあるし、物で埋めるのは難しいとはわかっている。でも照明で部屋の範囲を絞った上で全員でもっと寄って座るとか、何かしらの策が見えてもよかったのでは…。

アオタケの密集感は何も設定やイメージに忠実であるためだけに必要なわけではない。日常シーンで寛政メンバーの関係性を知ることで、箱根での襷リレー時のやり取りの切実さにより没入できる。何より8区のキングの独白を理解するには、誰と誰がつるんでいるのかを肌で感じておくべきだ。舞台で初めてストーリーを知った人はあのだだっぴろいアオタケのシーンからそれらを読み取らなくてはいけない。原作や他のメディアの記憶の中からその情報を呼び出すことのできる作品ファンとは違う。

2021年版で印象的だった演出に、紗幕・暗幕を使ってシーンごとに奥行きを調整するというものがあった。工夫によって限られたスペースを効果的に使っていて、空間への感度の高い演出に心が震えた。それがあったからこそ、今回のアオタケには持っているはずの力を発揮できていない感があり、ひいては先述の日常シーンの伝達が手薄になっている印象につながってしまった。


1-2.

もう一点、大きく感触が変わったのが走りのシーンだ。ルームランナーを使用した2009年の演出に縛られず、2021年は舞台上で走る・足踏みするという素直なアプローチをすることで大成功を収めたと言っていい。今回も基本的な考え方は同じで、あの演出は疑いようなく観客の心を揺さぶったことと思う。

だが、劇場の拡大によって足音がこぼれ落ちた。シアター1010において、キャストはピンマイクをつけられている。その結果、恐らくは呼吸音を必要以上に拾わないようにする目的で、セリフのない走行シーンではマイクが切られていることが多かった。これが作用して、走るときの足音が客席まで届きづらくなっているのだ。

今回自分は2階席での観劇だったため、なおさら強く音の欠落を感じたというのは間違いない。でも、1階席の後方には聞こえていたのだろうか。客席の半分ほどの人には走行シーンの足音が聞こえなかったんじゃないか。

音については物語を追う上でなくてもまったく支障がない。アオタケの件とは違う。だが、2021年に自分が感動した集団走で地面を激しく叩く足音は、偶発的に届けられた情報だったのか。あるいは、足音が最も魅力的な要素の一つであることを、作品側が自覚していないのかもわからない。そういう予感に不安を感じた。

結局は、劇場へ適応できていなかったことそのものよりも、2021年に確かに通じ合えたはずの作品と実は分かり合えていなかったという事実があぶりだされたこと、それに対する複雑な気持ちを、自分は乗り越えられずにいる。期待していた部分が作り手に重要視されていないかもしれないというのを目の当たりにするのは寂しいことなのだと初めて知った。


2-1.

再演の情報が出たときの第一印象は、そうか、舞台「風が強く吹いている」もいよいよ商業的な流れの中に取り込まれたのか、ということだった。テレビを見る人なら誰もが知っているトップアイドルを主演に据えて、きっと彼のファンの人もたくさん観に来るだろう。チケットは取れるのだろうか……。

もちろん映画化したときのキャストだってすごかった。当時はドラマ「のだめカンタービレ」や「ROOKIES」に夢中になっていたし、周囲がみんな『バッテリー』にはまっていたため映画をチェックしている人も多かった。

けれども、舞台版はこれまで演劇に軸足を置いた若い俳優たちが集まって作られてきた。そこに突然ジャニーズの、しかもデビューしたてなどでもない人がキャスティングされた衝撃は大きかった。だが、自分は偶然2017年の「サクラパパオー」を観に行っていた。そのとき、彼に対して何か悪い印象を持ったような記憶はなく、年齢的には少し気になるが、舞台経験も多いようだから心配せずに待っていればよい、と思っていた。

思っていたのだが、わたしが舞台上の彼にハイジさんを見ることは最後までなかった。恐らく、それは彼自身の問題ではない。前の舞台の本番が12月22日まであり、並行して年末の歌番組にカウコンにとずっと忙しなくグループ活動をされていたことは想像に難くない。そして風強の本番は1月18日にもう始まっているのだ。

ごく限られた時間の中で、飄々としたハイジさんの佇まいを流れるようなセリフ回しに落とし込めるのか。誰よりも成熟した走りへの思いを体現できるのか。周囲に見せる箱根への情熱と内に秘めた走ることへの渇望、いくつもの層をなすハイジさんの感情を自在に隠匿し、あるいは表出させられるのか。これが、本当に適切なスケジュールだったのか?

とはいえ、わたしが最も好きな登場人物はハイジさんだ。後述するブレの個人的な受容度は、ハイジさんに対するときだけどうしても低くなる。ハイジさんをハイジさんとして認識するときの判断は相当に厳格になっているだろう。今年のハイジさんも素晴らしかったと思った人のことを否定するつもりはないことを念のため書き添えておく。


2-2.

一方で、カケルに対してはまた新しい解釈の人物像が生まれた喜びがあった。2021年の蔵原走のことはかわいいと評したが、今年のカケルは一言でいえばピュア。荒削りな情熱を持ち、他者とぶつかったときの温度が高いところは今まで通りのカケル像なのだが、藤岡に向ける感情が新鮮だった。

六道大の藤岡は、カケルがほしいもののほとんどを持っている。名実ともに大学ナンバーワンの速さと強さ、恵まれた練習環境、そして清瀬灰二という人間への深い理解。記録会での藤岡の走りをきっかけに、カケルはスランプへと落ちていく。藤岡に強い憧憬と反骨精神や嫉妬心を同時に抱き、それでも彼への敬愛を認めて自身も強くなる。それがカケルだと思っていた。

しかし、今年のカケルは違う。スランプから抜け出すよりも早く、藤岡を目の前にして屈託なく「あなたの走りを見に来た」と言ってのけた。きっと彼は自分の中の葛藤のすべてを自覚しているわけではないのだ。ただ本能的に藤岡の走りに惹かれ、何の駆け引きもなくそれを無垢にさらけ出す。これまではカケルの内面の苦悩に焦点がいっていたが、悩みのすべてが態度に出ていなくても、彼の輪郭は変わらないのだと理解した。


3.

必ずしもその人物を構築するすべての要素が維持されていなくてもよいということは、初期のメディア化の頃から示されていたことだった。端的に言えば、キングの多様化である。人物像のブレの範囲は作品がいろいろなメディアを経験することで広がっていった。王子がゲーム配信をしてもいい。ユキがジャズを聞いてもいい。そして、カケルが藤岡に対してピュアでもいい。その人をその人たらしめる核を確かに持っていれば、枝葉の部分の多様性は「風が強く吹いている」という作品が受け入れてくれる。

寛政大は寄せ集めのチームだ。彼らは陸上とは無関係の理由で各自アオタケにたどり着き、暮らしていた。それをハイジさんが束ねて箱根を目指すのだから、前提の部分はある程度の融通が利く。誰でもいいわけではない。けれど何より、そこに存在して走りに向き合う素質があることが肝要なのだ。そう考えると、風強の舞台化のためにキャストを集めることは、ハイジさんのやったことに少しだけ重なる気がする。

舞台「風が強く吹いている」は、キャストを固定せずに再演していくことで幾通りもの可能性を魅力的に提示してくれると確信している。いろいろなひとが、様々な場所で箱根に向き合うだろう。そのときに、また舞台作品としての最高を更新してくれることを期待して、次回公演のアナウンスを楽しみに待ちたいと思う。

 

 

追記

書き込む隙がなかったが、今回お芝居の面で最も記憶に残ったのはジョータ役の二葉勇くんだった。3区を走りながら、ジョータは弟の走りへの情熱を語る。そして、自分が走るのはここまでだ、とも。それがあまりにも真に迫っていて、彼はこの作品が終わったら要くんにすべてを託して役者を引退してしまうのではないかとすら思った。そんなわけはないのに。双子の役を双子が演じる深みをこれまでで一番強く感じ、作品の柔軟さに気づく一方で、誰でもいいわけではないという面も印象に刻まれた公演だった。