刀ミュがまさかこんなに重量級な作品だとは思わなかった/真剣乱舞祭から『三百年の子守唄』へ

今さらだが刀剣乱舞が熱い。言わずと知れた人気タイトルだが、自分は高校時代の一番嫌いな教科が日本史だった。テストのたびに無勉で臨んではひどい点を取って答案返却時に必ず注意を受けていた記憶がある。とにかくそういった歴史系の作品に一切興味がなく、刀剣乱舞にもこれまで触れたことがなかった。かつてテニミュに出ていたキャストたちが刀剣乱舞のミュなのかステなのかに出るようになって、SNSに上がる写真を見ながらなんとなく誰が誰役というのを把握しているという、その程度の距離感だった。それがいつの間にかこんなに熱くなっている。燃えるようにというわけではなく、腹に貼り付けたカイロのように刀たちは温かい。
昨年秋ごろに声優陣目的でふらっと花丸を観て、その流れでゲームを始め、さぼったりもしながらぼちぼち遊んでいる最中だ。かねてより良作と聞いていた映画は、舞台上ではなく映像の中にキャラクターとして存在するという、今まであまり観て来なかったタイプのお芝居が堪能できて面白かった。というか何の含みもなくただ泣いた。映画のキャストは刀ステの方と同じだと聞いてがぜん舞台も観たくなったのだが、うたプリを観るためにちょうどdアニメストアに加入していたこともあり、サブスクですぐに観られる刀ミュを観てみることにした。
と言っても、最初に手をつけたのは真剣乱舞祭だった。仕事で激しく疲弊していて、2時間のストーリーを追う気力がなかった。調べたら本公演を観ていなくても大丈夫だと先輩ファンが書いてくださっていたし、これがテニミュにおけるドリライ的立ち位置であるのならば、楽しく息抜きができるだろうと軽い気持ちで手を出した。
これがまあ面白かった。2017がよかったので2018も続けて観た。誰が誰でをぼんやりしか把握できていない体たらくながら、ライブコンテンツとして眺めているだけで楽しい。なぜ刀がライブをやっているのかはいまだにルールがよくわからないのだが、今をときめくキャストたちが、歌なりダンスなりキャラクターとしての存在の強度なり、それぞれの強みを発揮した大規模な会場でのパフォーマンスは贅沢で景気がいい。2017では異次元の歌唱力を持つ蜻蛉切(spiさんの作品は初めて観たのですがジャージー・ボーイズに出演されていた印象が強く、刀ミュに出ていることにかなり驚いた)と、お芝居パートでも激しいダンス中でもあの感じの挙動が一切崩れない千子村正に目を奪われ、2018では「断然、君に恋してる!」というちょっと理解が追いつかないくらいポップでキュートなラブソングがセトリに入っており、それをパフォーマンスした今剣(かわいい)と岩融(かっこいい)、そして石切丸さん(「笑うなよ」の振りの吸引力)にすっかりやられてしまった。それが11月の下旬であった。
今年に入ってようやく舞台を観るだけの体力を取り戻し、その5振を編成に含む2作を観ることができた。ひとつは『三百年の子守唄』(2017年版。以下みほとせ)。もうひとつは『阿津賀志山異聞2018 巴里』(以下阿津賀志山)。そのうち特に好きだった前者を中心に、刀ミュの話をしていきたい。以降、あらすじと演出には触れるが結末のネタバレはない。

 

刀剣乱舞にはまとまった原作ストーリーというものがない。舞台のお話は任意の6振が任意の時代に出陣するという枠組みの中で書き下ろされているようである。刀としての由来や活躍した時代を元として、ストーリーのために部隊が結成される。歴史への理解が深ければもっと多くの感動を得られるのかもしれないが、肝となる史実は作中で過不足なく提示されるので、日本史が赤点すれすれでも振り落とされることはなかった。
みほとせのあらすじはこうである。遠征中の刀たちが、敵襲によりひとりの赤子を除いてその場の人間が皆殺しにされる現場に居合わせる。残された赤子は、ゆくゆくは徳川家康となる人物だった。その時点から元の歴史に合流させるため、刀たちは家康の近しい者たちになりかわって彼を導くことになる。その任務に選ばれたのは石切丸・物吉貞宗蜻蛉切千子村正・にっかり青江・大倶利伽羅の6振。なかでも石切丸は家康の子・信康の教育係として近しく交流していたが、史実によると信康は家康によって切腹を命じられて人生を終える、ということになっていた。石切丸は立場上信康の介錯をしなければいけないことをわかっていながら側を離れず、いよいよその日が迫ってきて、という流れだ。赤子が成長するまでついていてやるというだけでなく、長いスパンで家康を家康たらしめよ、というのが今作の任務なのだ。この設定が示された後はテンポよく進むため中だるみなく観れるし、人間たちが年齢を重ねていっても見た目の変わらない刀剣男士の異質さもうっすらと立ち上がっていく。
まず第一に、刀ミュのストーリーのヘビーさに度肝を抜かれた。ポップでもなければキュートでもない。あんなに楽しそうに踊っていた刀たちも、戦場に出れば戦場の顔を見せる。彼らがかけているのは刀としての矜持と肉体の生死だ。主命を受けて人を殺め、その中で戦の意義に葛藤する。かつての主やその時代の人間たちへの愛着と現在の主命とを天秤にかけ、制御し切れない己の心の働きに苦しむ。映像化されたものを自宅のたいして大きくもないテレビで観るという、没入感の減っているはずのコンディションであっても、へとへとになるまで泣いた。これを現場で多ステしたファンたちのタフネスを思う。
重たいストーリーの中で心を和ませてくれるのが千子村正だった。ゆらゆらとピチピチの2つのムードの仕草をくるくると使い分ける彼が笑いを誘い、一時の安らぎをくれる。フレームアウトしているときにも会場から笑い声が上がっていたから、恐らく映らないところでも何かしていたんだろう。さすが。徳川家との因縁(これも作中でしっかり説明される)からこの出陣に選ばれたのだろうが、話が重ければ重いほど、どこかで笑っておいた方がかえって入り込みやすくなるのが舞台だと思う。張り詰めっぱなしにしないための緩衝材として活躍してくれていた。
阿津賀志山が肉体に伴って人心を得た刀同士の対話でストーリーが進んでいくのに対し、みほとせは生身の人間と刀たちとの交流が中心になっている。そのため、キャラクターである刀剣男士たちと(キャラクタライズされているとは言え)普通の人間である歴史上の人物たちが同じ場面にいることが多い。刀と人間では恐らくチャンネルの違う芝居が求められるはずで、ちぐはぐにならずに同じ場に存在するというのは簡単なことではないだろう。刀にも人にも等しく自然に思い入れが持てるようなチューニングがなされて、刀ミュが実現しているのだと思った。
刀たちはゲームのとおりに、それぞれ系統の違う衣装をまとっている。和装に近い衣装のキャラクターはさぞかし所作が難しいことと思う。はっとしたのはクライマックスシーンの殺陣で石切丸が腕全体があらわになるように右手を上げたときだ。ゲームでは真剣必殺というシステムでピンチになった刀剣男士たちが衣服を脱いで肌をさらすわけだけど、そのシーンに至るまでは石切丸の着物の所作が徹底されていたのだろう。対比的に、袖がまくれるだけでいくらか脱いだかのような錯覚すら起こした。細やかな演出効果を感じる。
衣装の違いに関連して、そこまで年齢差のないはずのキャストたちなのに骨格がばらばらなことにも毎度驚く。自身の刀種に合わせて肉体を授かる、その説得力が増して見える。そして持っている刀の長さがキャラクターによってまったく違うわけだ。体の大きさも帯刀するものも衣装による可動域の制限も異なる6振が並んで踊ったり見得を切ったりするときにぱきっと舞台映えするのは、きっと細かく振りが調整されているからなのだと思う。
最後には『三百年の子守唄』というタイトルの意図が穏やかに回収される。嗚咽が止まらなくなりながら、題も含めてひとつの作品であるということに、満足感がもう一段上がった心地だった。

 

命のやりとりに散々泣かされた後に待っているのは第二部のライブである。ペンライトをやうちわを振ったりしてもいいやつである。泣き疲れて早く寝たい気分にすらなっていたというのに、ここからライブに向けて気持ちを切り替えなくてはいけない。とは言え真剣乱舞祭で見覚えのあるキラキラの刀たちの笑顔を見ていると、だんだん気分が復調してくるから不思議だ。刀剣男士だけでなく、本編で役割を終えた人間たちもライブパートに出てきて一瞬面食らうが、彼らの名前も呼んで盛り上げることができるというのはどこか(われわれ観客のための)救いにも思えた。
それにしても石切丸役の崎山つばささんは、これだけ重たい芝居を主役でやったあとに誰よりもアイドル然としたスマイルを見せてくれて、メンタルのしなやかさに脱帽しました。殺す殺されるのシーンがあると、きっと役を全うするだけで心が削られると思うから。彼のおかげですっかり石切丸さんのファンになってしまった。仕事に忙殺されるうちに早くも1月は終わってしまったが、隙を見て残りのタイトルも引き続き観ていきたいと思っている。

 

ところで、うちの本丸には刀ミュから興味をもった5振のうち、村正と蜻蛉切と今剣がいて、つい先日岩融も来てくれた。いちばん望んだ石切丸さんだけがいない状態だが、欲しいものこそ手に入らない的世界観は嫌いじゃない。気長に待っています。