雑感集2020

今年観た映画の感想かき集め。真面目に書いたのもあれば数行で終わったりもする。
わたしに××しなさい!」「貴族降臨」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」「罪の声」「望み」「ミッドナイトスワン」があります。

 

わたしに××しなさい!」(配信)
先日、テレビをつけたタイミングで一瞬見えた銀座カラーのCMに出ていた人が大変かわいく、シェフを呼べ!的感覚で調べたら小関裕太くんだった。今こんな感じなんだ…。たびたび名前を目にしてはいたけど、わたしが観た小関くんのお仕事は2014年の「ごめんね青春!」で止まっていた。
寛ちゃんのお芝居を確認するために観た映画版「わたしに××しなさい!」で、小関くんはW主演を務めている。他の作品でじっくりお芝居を観たことのある役者が寛ちゃん以外におらず、贔屓目なしに比較することができないのだけど、おそらく、この作品の問題点は芝居ではない。
漫画なら漫画、小説なら小説の、もともとのメディアに最適な作品だったなあという意味で、結果的に原作がいちばんよかった、映像化(漫画化、ノベライズ、舞台化などなど)はしない方が面白かったという作品がある。「わたしに××しなさい!」もそうなんじゃないか。原作コミックではスパイスの範囲で効いていたのだろう設定も、現実世界を舞台に生身の人間で見せられると、リアリティが実存レベルに足りなくて要素自体が浮いてしまう。例えば主人公の口調とか。リアル小説バトルとか(これは類似のものがあるかもしれないけど)。どうなんだろうね、趣味の問題なのかな…自信がなくなってきた。
青春恋愛ものには「次に何が起きるかわからない」を積み重ねて「約束された両思い」にたどり着くというひとつの型がある。それに対して本作は、ミッションという形をとって出来事自体は先に提示してしまう点がユニークで、出来事への反応にがっちりフォーカスする(ドキドキを書いた小説の本文が挿入されることもある)。また、既知のはずだったミッションが少しずつ指示から外れていくことでジャンルの王道も押さえていく。
……と書きかけても結局はミッションを含む数々の設定が現実世界から浮いていてイマイチ入り込めずに終わった、という印象に尽きる。なんでこんなことに…。
自分をモデルにして事細かに経過を小説にしたとわかったら、彼が心を開いてくれることはないかもしれない、と主人公は葛藤するわけだけど、問題はそこじゃないような気がするんだ…セクハラまがいの要求を脅して叶えさせているわけだし…。そのあたりを原作でどのように処理しているのか気になる。
玉城ティナのほとんど色のない薄ーい肌と超絶スタイルを存分に生かして脚や腕や肩を出す服を着せまくっているのが壮観だった。あと、キービジュに反して特に小関くんとのセクシーなシーンはなかった。
寛ちゃんの健気で大人しい役のお芝居は大変かわいらしかった。これまでチェックした作品のお芝居は、本人の末っ子気質やどこかふてぶてしい感じ、ハツラツな大型犬的魅力をベースにしたイメージが強かったけれど、こういう儚げな役もどんどんやってほしいと思いました。

 

「貴族降臨」
なるべく心のままに、貴族が降臨したあとの王子たちのことを話す(貴族の話はあんまりありません)。
ちゃんと貴族誕生を観たはずなのにいまいち状況を理解できないまま映画館に向かった。前作の感じからある程度の総集編的説明パートがあるだろうとたかをくくっていたけれど、今作はあっさりしていましたね。上映時間も短いしね。貴族は即爆誕し、時間はびゅんぴゅん進んで、ドリーチルドレンが増加していた(チルドレン…)。この時間進行の一定性を気にかけない感じはハイローに近いものを感じた。今はいったいいつなんだ?
結城先生と尊人のエントランスでの掛け合いは圧巻だった。今や数多の作品で準主役として活躍しつづける2人がこのような笑顔製造専用会話をやってくれる、なんって贅沢なんだ!! プリレジェをプリレジェたらしめるのは結城理一であると言っても過言ではない。プリレジェ世界とすべてのプリンセスたちは結城理一を求めているのだ。
自分は綾小路葵のプリンセスであるからして、集合立ち絵シーンしか出番がなかったらどうしようかと不安に思った夜を否定しない。ところが開けてみたら相変わらずの生徒会時間が流れていて安心しました。さのれおくんとメンさんの関係性を以前より知った今感じたのは、この2人、完全に芝居のムードを一致させている。役へのアプローチはまったく異なるだろうに、さすが。奏のピアノや光輝の歌唱が役者の魅力を生に近い形で援用した見せ場だとすれば、会長におけるそれは「臨・兵・闘・者…」のシーンだろう(さのれおくん本人が嬉々としてやりそう〜という個人の見解に基づきます)。突拍子もない行動ではあるのに、会長が会長として自然にやり始めたように感じて、そういうところも好き(?)
3Bのシーンがごく少なかったのは寂しさがあるものの、「接客がポンコツ」な光輝に愛おしさを感じないことがあるだろうか。そういえば元ちゃんはドラマでも果音や尊人に特攻していたし、キャラクター像に一貫性を感じると作品を大事に思える。制作チームが変わって戸惑いもあったが、愛しているよプリレジェ。
突如現れたヘリに誰が乗っているか悟ったとき、わたしは号泣していた。奏が帰ってきた。ドリーのマニフェストみたいなパンフレットを捨てる生徒たち。伝説の王子が、めちゃくちゃになったこの世界を救ってくれるんだと確信した。そして遡って、王子力がなんなのかの答えらしきものを薄っすらと感じた。王子力、それはその場に安寧を与える個の魅力。三代目伝説の王子を競ったり王子たちの中で最もその力が強いのは、朱雀奏に他ならない。伝説の王子の座を射止めうるのは奏だけだったというわけだ。

 

ヴァイオレット・エヴァーガーデン
ホッチンズ社長が自分の荷物も重たいだろうにヴァイオレットの大きな仕事鞄をひょいっと持って追いかけてきてくれるところがあまりにも愛でした。社長はずっと保護者、庇護者としてヴァイオレットを愛してきていたわけですが、今作で「同情、心配、過保護」という言葉を通じてヴァイオレット側からもその関係性を優しく再規定されたのだと思いました。
優しくて正しくてそれゆえ時に残酷で、けれどいつもヴァイオレットを受け入れて背中を撫でて、あるいは押して、今まで一緒にいてくれた人。ブローチを買い戻してくれた日から彼の愛をとても好きでした。

 

「罪の声」
最近の挙動不審を浮気と疑われた星野源が浮気なんて!と叫んで寝ている子を市川実日子と見るシーンと、波止場で星野源小栗旬が缶コーヒーを飲むシーンの「この一瞬で関係性をこんなに!?」という感動が大きかった。
前者は、いかに星野源が幸せな人生を歩んできたかという、ラストに向かっての聡一郎との対比につなげるのにすごく重要なポイントなんだけど、ありふれた日常生活をだらだら描くのでも、市川実日子の疑念やその回復を描くのでもなく、浮気なんて!のたった一言で観客に「善なる家庭」を刷り込ませた会心のシーンだと思う。
後者は、てっきりバディものだと思って観に来たけど星野源小栗旬なかなかバディ感出さないな〜と思っていたタイプの観客(わたしだ)を唸らせる魅力的な小休止であり、なおかつ小栗旬の記者としての心が初めて覗くシーンでもあるんだよね。阿久津さん好きですよ、じゃないんだよな。そしてそこからラストの、記者としての再スタートを機にスーツを仕立てに来る小栗旬っていう、2人をつかず離れずの距離に立たせた上でそれぞれの仕事に戻らせてバディを収束、終結させたからやっぱ上手いなと思いました。

 

「望み」
よかったなと思ったのが舞台設定で、大都会でもなければど田舎でもない、しかし基本的な移動手段は自家用車と自転車という具合の街。もしこれがもっと人間関係の希薄な都心だったら周囲からの干渉はもう少し大人しかったかもしれないし、より閉鎖的な田舎だったら残された家族が息子を思うよりも強く村の態度を描かざるをえなかったはず。家族と社会がお互いに与える影響のバランスがうまかったと思う。
そんな環境の中で主役となる石川家は特出して裕福な家庭であり、恵まれた家だった。それを言葉で説明せずにわからせる技法はいろいろあってどれもうまくいっているんだけど、すごく印象に残っているのが、娘を塾に送るときに後部座席のドアをわざわざ開けてあげてから乗り込ませるという父(堤真一)の仕草です。父本人の育ちのよさであり、子どもたちへの育たせのよさであり、愛情の示し方であり、どのみち確かなる上流階級の人だなと思ったのだった。
悲しくて切なくて涙を禁じ得ないラストなんだけど、作り手の心を疑うような話を盛り上げるためのバッドエンドではなく、「4回泣ける」みたいに事前に宣言するような野暮ったさもなかった。映画館に閉じ込められてしみじみと感情を揺さぶられる邦画の醍醐味を感じられるタイプの作品、重くてつらいストーリーながらもいぶし銀な秀作だと思いました。

 

「ミッドナイトスワン」
・ナギサの状況がどんどん過酷になっていくわけだけど、あんなに過酷でなくてはいけなかったんだろうかと疑問に思う。記憶違いであれば申し訳ないが、キネマ旬報のインタビューの中で監督に対して、現実のトランスジェンダーが置かれているよりもつらい状況を作ったのはどうしてか、みたいな質問をしていたのを見た(なんと答えていたかは忘れた)。その時点で想像していたのは親類に罵られたりとか採用面接でLGBTの研修がなんたらと言われるとか、そういう方向性のつらさだったんだけど、実際は自分の選択によって心身が磨耗していくというもので、目をそらしたくなった。お母さんになりたいっていう彼女の望みと選択が、陳腐でいいから幸福な未来を呼び寄せてほしかったと思うのは完全に自分のエゴだし、それこそ「現実より明らかに甘い状況を作ったのはどうしてですか?」案件になりかねないのだが、何もここまでしなくてもと打ちのめされてしまい、自分のフィクションへの幻想みたいなものが不恰好に露見した形であることよ。
・いやでも現実と比較してどちらがどうかなんていうのはしょうもない考え方だと思うし、その比較はわたしがやるべきでもなければできるような言い方をするのも正しくないと思う、うまく言えないが。
現代日本の監督がここまで大きくトランスジェンダー映画と打ち出した本作の立ち位置とか価値とかをもっと考える心積もりだったのだが、完全に心が折れてしまった形。当事者の苦しみを生々しく誇張して描ききった秀作、なのか、一人の人間の人生をお涙頂戴的演出のために誇張して消費した悪趣味な映画、なのか、世間がどう言っているのかわからないけれどそれについて追究したいと思えない。
・母になりたいという願望が、バレエの先生が意図せず用いた「お母さん」という呼称によって明確に形をもったのはよかったと思う。その願望に彼女が飲み込まれていったように見えるから、手放しで賞賛するのもはばかられるんだけど。
・公園でイチカとナギサが踊るシーンはまるで幸福の見本のようで見とれた。美しかった。
・最初はナギサが読んでいた漫画を追いかけるようにイチカが読むのもよかったけど、らんま1/2っていうのはどういう選択なんだよ…。
・ウエディングパーティでリンが踊るシーンもよかったし、あのときの衣装はかわいくて好きだった。でもイチカのコンクール曲を踊りながらリンが身を投げることで、(ナギサの母親願望の矛先であることもあり)イチカが周囲の運命を狂わせる神の子みたいにも見えてしまって、イチカにそれだけのものを背負わせる必然性とは…と考え込んでしまう。
イチカ役の彼女のお芝居はずっとよかったと思った。ぜんぜん口を利かない序盤の立ち振る舞いもよかったし、しゃべるようになってからも新人っぽさをあんまり感じなかったというか、普通に存在している子どもという感じで。
・時おり挟み込まれるよその家の親子の会話が、芝居の稚拙さという点であまりにも浮いているのが個人的にはかなり気になったが、それらを聞いているナギサなりイチカなりがそれだけ非現実的で遠いものと認識している、という演出なのかもしれない。
・ラストのイチカがコンクール会場に颯爽と向かう後姿がナギサに酷似しているという演出は好ましく感じた。世界に羽ばたいたイチカにナギサの面影を見たようであり、母としてのナギサの選択が報われたように見えたから。