ニケツをする者たち/「あのこは貴族」を観た

こういう映画がやっぱりどうしても好きだ。共感したとか自分の半生にどこか重なったとか陳腐な感傷をひけらかしそうになるくらいに。これまで生きてきて感じた苦痛や違和感や焦りが、この作品を自分の近くに存在するもののように見せてくれた。自分の人生には今のところ大した内容も成果も詰まっていないが、こうやってよい作品に入り込むための養分にはなっているのだとわかる。自分自身が過ごしてきた固有の時間があることが喜ばしいことのように思わされた。

貴族の華子と上京組の美紀は邂逅しただけで、交わらない。お互いの意見にはっきりと共感することもなければ、友達になるわけでもない。反発して憎みあうことすらない。相手を認識したことで二人に訪れた不安も決別も激しくクローズアップされることはなく、淡々と変化して過ぎ去っていくだけだった。そういう揺らぎの見せ方の塩梅がこの作品を現実と地続きに感じさせるひとつの要因なんだろう。しかし、タクシーと自転車というまったく違う移動手段を使う二人があんな大都会で、偶然にも同じ方向へ走る途中で再会するというのは、華子と幸一郎が他人の用意したレールの上で知り合ったことよりもはるかに、作中一番の劇的な出会いだったかもしれない。

山下リオが友達としてそばにいてくれることの心強さに、「寝ても覚めても」の印象を引きずっていることを自覚しつつも、ずっと助けられていた気がする。ニケツという言葉にげらげら笑う水原希子山下リオを見ていたら愛おしさに泣きそうになった。このニケツという行為、(結婚とは異なる意味での)タッグを組んで生きていくことの象徴として物語の後半でも再登場する。珍しく自分の足で夜を歩いて帰宅する華子がニケツの二人組を見つけるのは大きな橋の反対側だ。車道を挟んだ近寄ることのできない向こう岸にニケツはあった。けれど、最後の最後に華子は、自身と同様に周囲の貴族の子たちのようには枠におさまらない逸子と、三輪車に乗ってはしゃぐ姿を見せた。ニケツに似たその走りは二人がつかず離れずで人生を進んでいく明るい予感につながる。

激しい感情を顔に出さずに進行していった本作において、離婚を切り出して義母に平手打ちされたときの門脇麦の表情は、唯一とも言えるほどの苛烈な発露で、息を飲んだ。また、大学時代から現在に至るまで一貫した人物像を演じた山下リオと反対に、大学の入学式からグラデーションをつけて徐々に東京の人めいた振る舞いになっていく水原希子もしみじみとよかったと思う。二人が作中で着るいろいろな衣装も好きだったのだが、そちらは悲しいかなぼんやりとしか思い出せなかった。

自らを雨男と称する幸一郎だが、登場するたびに執拗に雨を連れてくるものだから、雨音や濡れた景色が彼のテーマのようになっていって面白かった。映像ならではの聴覚・視覚のリフレインが好ましかったし、雨が降ったら彼が出てきて物語が動くのだと心の準備もできた。それに、ラストで華子と再会した彼に雨は降り注がなかった。あの再会は心を高揚させはしても、もう誰にとっても重要なターニングポイントとはならないのだ。まだまだ残っているこの先の時間への期待と、しかしもう不安に思う必要はないという安堵で、幕が下りる。