幸の宝物は/「海街diary」を観た

フィルム撮影というものをはじめて意識したきっかけは「町田くんの世界」だった。光の切り取り方に力があって、誰かの言葉で世界が違って見えるようになるという主観的な感覚を、客観的かつ押し付けがましくないささやかさで実現していたのを覚えている。同じく光が記憶に残った「マチネの終わりに」もフィルム撮影だと知り、魅力を感じる光とフィルムには関係があるのではと考えた。そういうわけで、近年のフィルム撮影の邦画のひとつ、「海街diary」を今さらながら観た。が、スマホの極小画面で観たせいで光やフィルムを意識することがあまりできなかった。本末転倒。

光の使い方で印象的だったのは、すず(広瀬すず)が2階の自室の窓を背にして立っているカットだ。室内は逆光で暗く沈み、窓の向こうの緑がちな光が四角くすずを切り取る。この時点ではまだ鎌倉の家の中にはすずが心を許しておらず、対比的に外の世界が光を与えている。

家の中での姉妹たちは、特にすずに対して、現実離れしたとも言えるほど甘い話し方をする。はじめはある種の仲の良い理想の姉妹像の体現なのかと戸惑ったけれど、彼らの居場所たる家が、いかに安心して油断を許してくれる空間かをすずに教えようとする気持ちが表れているのかもしれない。

同じ家に3人で暮らしているのに、姉妹たちは三者三様の趣味で服を着ている。喪服姿で並ぶだけでも、人物像が少しわかってくる。そして単にキャラクターを担保するためではなくて、綾瀬はるかなら綾瀬はるかの、長澤まさみなら長澤まさみの身体的ストロングポイントを踏まえたすてきな衣装なのだと思う。幸(綾瀬はるか)の服を佳乃(長澤まさみ)がもらうシーンが、とはいえ体格と年の近い姉妹というふうで好きだったし、幸の失恋を思って泣けた。


長姉・幸と末妹・すずの仲は、ほかの姉妹と比べてなかなか深まらないように見えた。すずは子どもでいることを大人に奪われた子なのだ、という幸の言葉が自身に返ってきたとき、この2人は相似だったのだと気づかされる。すずを鎌倉での生活に引き入れた幸の決断は、半分しか血の繋がらない弟ときょうだいとして暮らしていたすずと同じ状況を、幸自身に作ることに他ならない。振り返ってみれば山形でのすずは、幸と同様に家族を支える姉だった。高台から見下ろす別々の、しかしよく似た景色を、2人は父親の思い出とともに眺めていた。

はた目には家にとらわれ、恋の相手も手放して、どこか行き詰まっていくような幸だったが、自分がここにいることをすずが受け入れられるようになることが、幸にとっても穏やかな肯定になる。ひとつは居場所をつくるという役目に新しい意味を見いだすこと、ひとつは自分からは失われてしまった子どもとしての時間をよく似たすずからは奪わないこと。すずはそういう存在として、幸の宝物になった。

姉妹たちが4人そろって砂浜を歩くラストシーンで、ふいにすずがフレームアウトし、かつてのように三姉妹だけが並ぶ。波打ち際ではしゃぐすずはきっと、途中で姉たちを振り返ったはずだが、カメラはその姿を捉えない。3人の目にはそれぞれに宝物としてのすずの表情が映るから、ひとつに定めることはしなかったのだ。