恭介というひとりの人間/「去年の冬、きみと別れ」を観た

一度予告を目にしただけで他に前情報を入れずに、軽い気持ちで「去年の冬、きみと別れ」を観はじめた。前半は相当消耗したのだけれど、後半に入ったらいつのまにかすべては終わっていた。種明かしの直前にそういうことか!と叫んだし、しかも自力でわかった(ように錯覚させてくれる)内容と、さらにその上をいく情報のバランスが気持ちよかった。

彼のしたことが結局どういうふうに扱われるのか、突き詰めて考えるのは少し怖い。だってどんな理由にせよ死があるんだから。でも、妙に透明で穏やかな終着点だった。

真っ赤な照明や妖精みたいな外国の姉弟、浮きそうなほどに雄弁な演出も木原坂の作品制作と溶け合っていてそこまで嫌味に感じなかったやとか、北村一輝のベッドシーンはハイカロリーだなあ!とか、細々とした気づきはあれこれある。でもいまは、恭介の話をしよう。

 

※以下、本作の重大なネタバレを含みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

始まりは図書館での出会いだった。初対面の人間が本を読むところを何時間もこっそり見ているなんて、人間の気持ち悪さが鼻につきかねない。にも関わらずこのシーンは、自身の仕事が他者に届くところを目撃する感動に着地した。自分の取り組みでひとの心が動く現場に立ち会えるなんてどんなにうれしいことだろう。想像して泣いた。見せられたのは誰もがもちうる感情だった。

思い返すと、恭介が執着質であることはこの出会いからして示されていた。復讐のために木原坂たちへ向けるものとはまったく別物に見えたから、観ているときはつながらなかったけど、彼には執着という一本の性質が通っていた。

恭介は、ひとりの人間だ。どこにいてもどんな風貌でも幸福なときも嘘をついていても、同じ人間であることに変わりはなかった。このお話が成立するには、何がなんでもそう思わせてくれないといけない。そうでなくては、すべてが回収されても腑に落ちないだろう。実際のところ、いくら反芻しても恭介はずっと恭介だったと思えるから、いい映画だと反射で言ってしまう。

ひとつ異質なのは、冬の海で恋人の手紙を燃やすシーン。人間の肉体を捨てて異形を獲得しそうなくらいに拡張する黒い目を覚えている。それで、彼の言う「化け物になる」が比喩でも誇張でもないことを飲み込まなくてはいけなくなった。こんなにも説得力をもって変貌を見せつけられるなんて。すごいものを見た、と思った。

途方もなくたくさんの感情を出力しつつ、「化け物」への変貌を挟んで、それらを発したのが同じ人間だと納得させること。原作は未読のため、小説でなされている方法をいますぐ検討することはできない。きっと、文章の形だからこそできる構成や修辞の力で、恭介という人間の輪郭が保たれているんだろう。映画で恭介の同一性を実現しているのは岩田剛典のお芝居だ。映画という形をとるとき、情報を出す順番を計算して、細心の注意を払いながら言葉を組み立てて、時間と光と音と世界のすべてを完璧に用意した上で最後のピースになるのは、役者のお芝居なんだと思う。委ねてもらえたことと、それに応えられたことを考える。ひとりの役者が最高の作品に出会うところに出会ってしまった。

 

ここまで我慢して書いてきたが、はっきり言ってこんなものじゃない。作品の素晴らしさも、岩田さんのお芝居の凄みも。悔しくてハンカチを噛みちぎる。せめて、恭介の半分くらいものが書けなくてはだめなのに。

恭介の本を手にした木原坂は、体ごとページに吸い込まれるように時間を忘れて読み進めた。たぶん、燃える人間を前にカメラを構えたときと似た表情で。そういえば、木原坂は二度の機会を手にしながらも、あの地獄を作品として昇華することはできなかった。大切なものを燃やして真に迫る作品を生み出したのは、恭介だ。恋人の手紙に火をつけた彼は、皮肉にも最高傑作を書き上げたのだった。彼の書くものを愛した彼女はもうこの世界のどこにもおらず、読んでもらうことは叶わないのだけれど。