無題もしくは詩について/映画「この道」を観た

かつて、歌のテストというものがあった。音楽準備室にひとりずつ呼ばれ、先生とマンツーマンで課題曲を歌うあれだ。学生時代は歌うのが好きだったけれど、そういう場面で褒められたのは2回だけ。ひとつは、中2のときの「赤とんぼ」。もうひとつは、高1のときの「この道」。どちらも音楽の教科書の中で断トツに気に入っていた。大きく膨らんで戻ってくるメロディーラインは、歌っていて気持ちがよかった。この2曲が山田耕筰作曲だと気づいたのは、つい昨年のことである。
LDHに邂逅する前から映画「この道」の情報は目にしていた。わたしの好きな山田耕筰の!……と叫ぶほどの決意はさすがになかったにせよ、公開されたらきっと観ようと思っていたのだ。








※以下、本作の内容に触れています。








「この道」は、童謡のためだけの映画だった。ここにいる白秋も耕筰も童謡について語るために相当デフォルメされた人物だと、つまり、彼らの伝記としての機能がどれほどあるかはわからないぞと思っているのだが、詩については最大限丁寧に扱われていた。映像でこんなに核心をつくのか、と素直な気持ちで感動した。

白秋がはじめて童謡の作詞に向き合うシーン。からたちの花が咲いたね、「ね」じゃだめなんだ、これは子どもに語りかける歌だから…と白秋は言う。その瞬間、「ね」と「よ」の違いがすっかりわかってしまった。この差は何よりも重要で、ここで選択を誤ったら詩が全部台無しになる。それでいて映像で言うのはすごく難しい。セリフでならいくらでも説明できるけれど、それほど無粋なことはないだろう。
白秋は故郷・柳川の景色を語って聞かせる。そのときのスクリーンの質感はすでにあやふやになってしまったものの、映画ならではの圧巻の映像をもって制すようなものではなかったはず。白秋の語りを聞いた者が浮かべる最大公約数的な、輪郭が細くて穏やかなイメージだ。そこに、妻が息子へ「ロウソクの花が咲いたよ」と語りかけるのを見るというカットが続いた。誠実だと思った。言葉にも映像にもよりかからず、白秋の生の気づきで詩の根幹をなす差異について提示する、よいシーンだ。

もうひとつ詩に関して、「この道」をつくったあとの白秋と耕筰の回想。耕筰は白秋に問う。あかしあの花が咲いていたのは柳川、白い時計台は札幌……この道ってどこなんだ? 対して、どこでもいいんだよ、と答えが返ってきたとき、作中で最高潮の号泣に陥った。ごく個人的な記憶や体感をもとにしながら万人に届く言葉を生み出す、そしてその言葉から得るものは各々異なっていて構わない。そうだなあ、そうありたいなあ。ずっとそう思っていたような気がする。それをさらっとやってのけたかのように描くのが憎い。ずるい人間ですよ、白秋は。どうしようもない嫉妬に襲われる。主観が入りすぎて冷静ではいられない。

もともと白秋の詩は、身内では「色がある」という評価をされていた。「リズムがある」という評は『思ひ出』の出版パーティで鉄幹先生がはじめて口にしたもの。鉄幹先生にその言葉をもらった白秋があそこまで号泣する理由がピンと来ていなかったのだけど、それまで誰も白秋の詩のリズムを評価していなかったのだとすれば、他者の評で自分の作品にまったく新しい価値が生まれた喜びは想像に難くない。
なぜリズムという観点が白秋と同程度の新鮮さで受け取れなかったのか。冒頭から白秋は詩に節をつけて口ずさんでいたからだ。そもそも本作は白秋・耕筰が童謡をつくるお話なわけだし、白秋の作品に「リズムがある」のは観客ははじめからわかっていたことだった。それゆえ鉄幹先生の評の重要性を見誤ったところはあるものの、白秋の「リズム」は早々に提示しておく必要があるから、その意図はうまくいっているのだと思う。
耕筰が訪ねてきたとき白秋は、俺の詩にはリズムがあるからわけのわからない音楽をつける必要はない、と言った。これは単に鉄幹先生の評を重く受け止めていたからではなく、自作の新たな強みをないがしろにされる恐怖でもあったんだろう。実際の北原白秋の特徴が色彩から韻律へ移っていったのかどうかは不勉強ゆえ存じ上げないのですが、他者からの評価が作者や作品を方向づけるということがストーリーにしっかり絡んでいたのだ。本作がそれをとりまく批評までを含めて、全力で詩に向き合ってくれたことに、改めて嬉しくなる。
(蛇足だが、白秋とつかみ合いの喧嘩をする耕筰もといアキラさんのもったりしたアクションは、予想外の現実味を帯びていて好ましかった)


物語の始まりは、白秋については語りたくないと渋る晩年の耕筰に、どうしても話を聞かせてほしいと記者が迫るところからだった。記者は、「この道」という歌が好きで、悲しかったり悔しかったりするたびに口ずさんで元気をもらってきた、と言う。そのエピソードに耕筰が折れて、特別だよと話しはじめる。この導入は、ありきたりな綺麗事だなという第一印象だった。自身の作品が愛されていると知る、そんなことで簡単に白秋のことを口にしてしまうのか。実のところ、作品全体の雲行きが少し不安にもなった。
でも、違った。子どもたちが口ずさめるような歌をつくりたい、詩だけではどうにもできなかった現実に光を届けたい。それが白秋の願いだった。彼の理想が叶っていることを、2人の創作を制限していた世情が晴れたあとに、耕作はひとりで知る。それを思い出させてくれた記者の前で、耕筰は白秋のことを語りはじめたのだった。