「きみと、波にのれたら」はラブストーリーではない

公開初日のレイトショーにいそいそと足を運んだわたしは、うっすら後悔しながら打ちひしがれていた。「きみと、波にのれたら」が恋愛を主題とする物語であるならば、あまりにも救いがない。わたしは自分の薄弱な心を守るために断言する。これはラブストーリーなんかじゃない。


そうでなければなんなのか。映画館を出てから家に着くまで考えて、この作品はあなたのいなくなった世界でわたし(たち)はどう生きるかの話なのだと、とりあえずの結論を出した。そういう答えしか出せないくらいに港の存在とその喪失が大きかった。ひな子と港の幸福の日々をあんなに見せられたら、港のいない世界に呆然と立ち尽くすしかなかった。


死後、ひな子の歌に呼ばれて水の中に現れるようになった港は語りかける。俺も波のひとつだ、ひな子ならこえていけると。その言い方はどうしようもなく正しい。港は死んだ。ひな子は生きていく。いつまでも思い出の「呪文」を歌って過去を向いていることはできない。同時にこのセリフをきっかけとして、生前のように一緒に過ごしてくれていた港が遠ざかり、本心が見えなくなる。たったひとりの恋人をほかの過去と一緒くたにして折り合いをつけ、自分の未来だけを見すえて正攻法で立ち直るようにというのが本作のメッセージなのか?


冷静になった今、本作がラブストーリーではないと考えるのは、ひな子が恋愛から何かを獲得したわけではないからだ。港との日々は物語上必要な助走に過ぎなかった、見かけだけの幸福だったとは言わない。ただ、最終的に彼女が得た最大の答えは、恋愛に起因するものではなかった。


港の実家へと足を運んだひな子に向かって洋子は、兄の幼少期のエピソードを語る。そしてひな子はかつて自分が命を救った少年のことを思い出す。そのとき、チキンライスにのせるオムレツという作中で何度もあらわれたモチーフが、ひな子のサーフボードに重なる。あの形、あの黄色は、誰かを救うことができる人間の証だ。幼いひな子に助けられた少年は、長い年月をかけて人を救う力を自らの中に育て上げ、今度は彼がひな子を支えることになる。恋人という関係性によりかからず、誰かを救う人間の姿をひな子に見せるのだ。かつて自分が見たヒーローの、ひな子の本来の姿をなぞるように。


物語のクライマックス、絶体絶命の中で洋子がもらした「お兄ちゃん」という言葉で、ひな子だけの恋人がこの世界にかつて存在した港に変容したのだと考えていた。どうしようもなくなったときに港の名前を呼ぶのは自分だけではない。そのことを思い出して、恋人を解き放ったのだと。そうではなかった。もういない人を呼ぶことしかできない少女を目の前にしてひな子は、自分が助けなければと立ち上がったのだ。彼女はもう一度波にのる。港はその言葉どおり、ひとつの波になって消えた。


本作はひな子へ恋愛にまつわる救いを用意しなかったが、しかし恋愛そのものを否定したり、ないがしろにしたりもしなかった。兄とひな子の相思相愛っぷりへの反動と、自身の立ち行かない片思いから恋愛を見下していた洋子は、ひな子の前であっけらかんと恋を肯定してみせるし、一方で1年ごしの港のメッセージを聞いたひな子は痛々しく泣き崩れ、最後まで彼がいなくなった悲しみに心身を濡らす。恋愛という要素は特別扱いされないのだ。


そうだ、本作の態度は中立で現実的だった。とりわけ水にまつわるファンタジックな描写に引きずられて、恋人の死が契機となる物語と知りながら、どこかでその喪失が覆ったらいいと非合法な救いを無責任に求めていた。それで勝手に裏切られた気になっていた。これはラブストーリーを過剰に持ち上げて観客を自動的に救済する作品ではなく、港のセリフのような鼓舞をスクリーン越しにふりかざしてくるものでもない。ひとりの人間が正々堂々と立ち上がるさまを見せてくれただけだ。いつでも真っ向勝負をしていいし、だからと言って悲しみを誤魔化さなくていい。ひな子の一例を描いて、あとはこちらにゆだねられている。


「きみと、波にのれたら」はラブストーリーではない、と改めて思う。これは現実のひとかけらだ。本作もまたひとつの波で、だからこそ映画館を出た各自が現実に向き合うための後押しになりうるのだろう。