推しがいる生活2020

昨日、推しができた。
正確には、その人物がいま特別に自分の心をきらめかせてくれていることを昨日いよいよ認めた。この感覚を忘れないうちに記録すべく、今月初の定時退社をきめてブログを書いている。

 

その人をはっきりと認識したのは8月の上旬だった。直近で出演作に触れていたが、その人は山ほどいるキャストの1人で、言ってしまうと気に留めてはいなかった。ひとつエピソードをあげるとすれば、若手俳優の推しが2年ほど前に演じた役を別のメディアでその人が演じており、それでうっすらと名前の漢字の並びを記憶していたという、その程度に過ぎなかったのだ。その日観たのはライブ円盤で、その人はステージメイクを施されて美しい姿でそこに立っていた。

 

はっきりとときめきはしたけれど、その時は電流も流れなければリンゴンと鐘も鳴らなかった。その代わり、その人は3ヶ月半もかかってじわじわと生活に浸透した。ファン活動には行動の早い性質の自分ではあるが、その間リアルの現場がほとんど皆無であったため、肉眼で視認して即落ちという事態にはならなかった。だからなおさら気づかなかったのかもしれない。忙しい日々の中で心を和らがせてくれるコンテンツのすべて、すなわち日頃触れるTwitter・ソシャゲ・アニメ・音楽・ゲーム実況・映画・ラジオ・ライブ映像その他に、漏れなくその人が関わっている状態になっていた。その人に対する熱が加速度的に高まっていることにようやく気付いて手を止め、一息入れようと視線を移した先にもその人がいた。自分がすっかりその人を気に入っていることを、状況が教えてくれた。

 

特定の推しができたのは久しぶりだ。先述の若手俳優の推しがわたしの人生を変えてくれたこの世でただ1人の「推し」であり、今も大切に思っていることに変わりはないが、別の記事で触れたようにあるタイミングでファンとしては燃え尽きてしまっていた。その後も実在・非実在を問わず誰かを推している時期はあったものの、固有名詞として推しという呼称を使えるほどの熱を上げた人物はいなかった、と思う。それでなおさら、その人に接するたびにチカチカと星を生むこの心の働きが目新しい。推しのいる生活は、こんなだっただろうか?

 

かつて推しを推していた頃、とりわけもっとも加熱していた時期はとても苦しかった。日々生まれいづるさまざまな苦痛を乗り越えるために推しに全体重をかけて寄りかかっていた。推しにすべてを注ぎ込めない自分すら苦しみの種だった。それでも推しの名前を何度も口の中で唱え、大量に保存した推しの写真を網膜に焼き付けながら生きていた。

 

今は違う。その人が目尻を下げてゲラゲラ笑っていると嬉しい。その人がいろいろな服を着ているのを見ると心が躍る。しょうもない下ネタから生真面目なフォローまで、場をよく見て柔軟にカバーする立ち振る舞いが心地よい。その人への反応は至ってシンプルだ。ドキドキしたり爆笑したりギュッと視線を奪われたり、ことあるごとにキラキラと小さな光が心の中を漂って弾ける。

 

あの頃とは程度の差こそあれ苦しい日も多いけれど、推しにもそれ以外にも寄りかからずに粛々と物事をやれている。今をそれなりにいいと思える。推しがそう思わせてくれるわけではない。推しのいる自分が素直にそう思っている。どうかこのままつかず離れずでやっていけますように。

推しがいる生活、今の自分にはありみたいだ。