雑感集2019

ふせったーに置いた2019年の感想の転記です。


パンとバスと2度目のハツコイ

ふみの恋愛観を理解できない初恋の人として健二郎さんがキャスティングされてるのはよかった。たもつだって世間からしたら不可解な愛をやっているのに、ふみの考えばかりがわからないみたいな顔をする。恋愛のことに留まらず、バスの洗車もくるりの「東京」も絵のことだって、ふみの提示するほとんどのことに、たもつはあっけらかんとわからないって口にするのだ。そのくせ報われない状況にあってもかわいそうな感じがしなくてなんだか妙に健康的。そのあたりは、健二郎さんの心身とお芝居だからこそ出てきた印象なんじゃないかなという感じがする。
最後の最後でひとつだけ、ふみが愛する早朝の景色ははっきりと共有できて、急に分かち合えちゃってずるい!って思いもするんだけど、同じものを見られたっていう確かさはたぶん残るんだよね。


4月の君、スピカ。

福原遥ちゃんのかわいいけれどちょっと浮世離れしたお芝居が最初は少し気になったんですよね。でもスピカに話しかけてしまう星ちゃんの人物像とはマッチしていて。泰陽に翻弄されたり自分の気持ちに素直になるのをためらったり、そういう星ちゃんを追いかけていくと、あのかわいさが癖になっていって、やっぱりすっかり肩入れしてしまった。そしてなにより黒髪ボブが似合う…かわいい…。

大樹くんのお芝居は、見慣れているのもありますが、安定のって感じでスッとなじんだ。スイッチが入ったときの瞳に情熱が灯るさまはお見事で、泰陽の恋の自覚を劇的に見せてくれる。ひとが恋に落ちる瞬間の顔はある種恋愛映画の醍醐味のひとつですよね。加えて、これはセンセイ君主のときも感じたことだけれど、大樹くんのお芝居は感情の揺れがそのまま瞳の揺れに直結する。わかりやすすぎるかな?ってくらいに。でもそういうときはその役がなにかを言葉にするのをためらっているときが多くて、つまりセリフはなかったりする。だからそれくらいがいいのかもしれないって妙に納得してしまう。大樹くんの目のお芝居にはそういうパワーがある。
蛇足ですが、水泳対決シーンの大樹くんの体の仕上がりが一介の高校生の範疇をゆうに超えていて笑った。これは勝ちますわ。

君スピへの感想からは外れるけど、少し気になったのは冒頭から星ちゃんが深月に出会うまであたりの画面の暗さ。短時間のうちに夜空が広がる時間帯へ自然にたどり着かなくてはいけないので、パステルカラーな春の放課後から始まったらおかしいのだ、とはわかっている。星ちゃんの心情を鑑みてもピカピカの新学期を演出する必要はない。それにしてもやや暗いなという印象で、どうやら自分は光の量の多い映像に引き込まれたいという願望を映画に対して抱いているようだと気づきを得ました。

全体を通して感じたのは、恋愛に対して言葉を惜しまないな、ということ。少女漫画の引き出しが少なくて具体例を挙げて比較はできないのだけど、ポエティックな表現をたっぷり使って恋心を語るのは、ジャンルによるものというよりもきっと君スピの持ち味なのでしょう。それが新鮮だったし、感情をアウトプットするときは言葉を尽くしたいものだと再認識したのでした。言葉で語ることに堂々とある君スピのキャラクターたちは好ましかった。
それでいて、感情の吐露に言葉数を費やして進んできたストーリーの最後で、泰陽の渾身の告白を星ちゃんが長いって笑うのがいい。星ちゃんのセリフと行動はシンプルに好きとキスだけ。作品が通してきたポリシーをガラッと崩すヒロインはかっこいい。

登場人物に感情移入したり、作中での出来事を自分自身の記憶に結びつけたりというよりも、3人に寄り添って穏やかな時間を過ごすような観方ができて、それも面白かったなと思う。普段はいけるとこまで感情移入してビチャビチャに泣くタイプの人間なので(それでもけっこう泣いた)。なかなか観る機会のないタイプの作品を観せてくれて、大樹くんありがとう。


ハムレット

岡田将生の独白が非常によかった話をしたいのですが、ハムレットのセリフって現代口語じゃないじゃないですか。それをスピードをつけて話されると、どうしても聞き取れない単語やフレーズが出てくる。常にキリッと集中していないと声から意味が剥がれる感覚に陥るし、今日も少しそうなってしまったと思う。それなのに、岡田ハムレットのお芝居は聞き取れなかったときでもわからないとは感じなかったんです。言葉じゃなくて声のトーンや緩急、表情に仕草、あらゆるところからセリフに込められた意味が立ち上がっていた。もしも岡田ハムレットが未知の言語を話していたとしても、ある程度まではセリフの意味するところがわかったのでは?と思うくらい。もちろんそういう感覚を得られるのは岡田将生のお芝居だけではなく、河合先生が発話したときの音を大切に訳されているだろうことが要因としてあるので、一概には言えないのですが。今まで海外のカンパニーの来日公演には興味がなかったんだけど、今日の体験を踏まえて日本語以外の演劇を観てみたくなった。それにしてもわたしは岡田ハムレットが独白をするたびに感動してだばだば泣いてしまいました。岡田将生はこれまで主に連ドラで時々観てはいたけど、どんなお芝居をする人かっていうのは意識したことがなくて(すみません)。今までどこを見ていたんだろう、こんなに素晴らしいお芝居をするのか。

レアーティーズが王とテラスのような場所で企ての算段をしているところへガートルードがオフィーリアの訃報をもたらすシーン。「水はもうたくさんだろう、オフィーリア」がすごく好きで。個人的には感情移入でというよりも芝居や演出の妙に感動することの多かった今作の中で、ただ悲しくて泣いたセリフだった。瞬間的に兄になったあと、すぐに心を閉ざして去っていく。人としての輪郭が薄まったようなレアーティーズの後ろ姿を覚えている。
(話はそれますが、このシーンのセットがいいなあと思っている。2人が立つのでちょうどの狭くて丸いテラスは孤島のよう。ひたひたと歩いてやってきたガートルードが舞台上に薄い水面を引いたように思えた。オフィーリアの溺死と悲しみは水のイメージで、レアーティーズはテラスから飛び降りてオフィーリアの訃報に足を浸す)
ラストの決闘シーンでハムレット暗殺の企てを告白してしまう心情って、王にのせられて復讐を実行せんとする精神状態からの変化が大きいんだけど、復讐の炎を宿したところでこの人の本質は妹思いの優しい青年なんだっていうのがしっかり示されているからすんなりつながったんですよね。このレアーティーズなら言ってしまうわ、と。

前後しますが、絶対に言及しておかなくてはいけないのが第一幕第三場のレアーティーズとオフィーリアの会話ですよ。ほんの短い会話、しかもレアーティーズがオフィーリアに向かって忠告を述べるっていう内容で、2人がポンポン話し合うというわけでもないのに、どっしりした存在感の青柳さんと儚い黒木華さんのチャンネルが完全に血を分けた兄妹として合っていて、こんなに幸福な兄妹がこの作品にあっていいのだろうかと震えた。これは岡田将生のお芝居の話にも通じるところがあると思うのだけれど、レアーティーズのセリフも時代に結びついた硬い語彙で構成されている。でも口調は現代劇と変わらない気安くて柔らかいものなんです。セリフの文体に引きずられない今っぽいお芝居が『ハムレット』をぐっと生々しいものにしていると思うし、全体に行き届いたそういう演出が最もわかりやすく表れているのがレアーティーズとオフィーリア(と直後に加わるポローニアス)のこのシーンだったと思う。(少し前に、格調高い戯曲の中の過去の人物たちを、現代に生きるわれわれが感情移入しやすいように過度に卑近な人間として演出するのは善なることだろうか?という問題提起を得て、海外戯曲に触れたことのなかった自分は意見を持つこともできなかったのですが、今作は登場人物の気高さとか、われわれとはどうしても相容れない時代背景による思想とか、そういうものを損なわずに、それでいて距離を意識させない絶妙な演出だったのではないでしょうか)

それから、まとまった感想を書けていなかったモンスターメイツにも少し触れたくて。今回の兄としてのお芝居を観て、冒頭の坂上の芝居の異質さを改めて感じました。あそこは青柳さん演じる坂上が善性を演じるっていう二重構造があって、善性レイヤーの芝居はやっぱり意図的にぎくしゃくさせていたのだと。わたしは青柳さんの出演作をそれほど押さえられていないので、モンスターメイツ時点での引き出しと照らし合わせてもぎくしゃくの上乗せの細やかさに気づけていなかった。言い訳がましいですが。ラストに向けて加速していくクズっぷりと猫なで声の落差に目が行きがちだし、登場人物たちが本性を隠している間はみんなが不自然な芝居をするからどうしても精彩を欠いたシーンが続くんですけど、少し印象が変わりました。


きみと、波にのれたら

きみ波でわたしが落ち込んじゃったのは、作中の喪失に対するアプローチが現実的で、まっすぐ正しいものだったからなんだと思う。

歌うと水の中に港が現れるっていうファンタジックな設定から、喪失への対応も現実にはできない抜け道的なものを想定してしまっていたのかもしれない。ひな子の行動は最も現実的な正攻法のひとつで、あらゆる喪失の乗り越え方として有効というか、望ましいことなんですよね。つまり、自分の(港あるいは実際にかかえている)喪失感にも適応できるわけで。ひな子は「港という波」を乗り越えるために前へ進む行動ができるけど、自分は席に座ってるだけで何もできなくて、波を越えられないまま今に至っている感覚で。さまざまに理由をつけてやろうと思っていることができないでいる自分を考えちゃってるんだ。行動しよ〜〜!


GHOSTING

はじめて短編映画を観て、しっかり説明するところと観客がバイブスで受け止めるところのバランスに、作品のカラーが出るのだなぁと思う。シネファイ3の5作の中で、わたしはGHOSTINGのバランスがいちばん好きだった。

現在と未来、二地点の主人公がひとりの幼なじみと並ぶとして、見た目の差って難しいポイントなんじゃないだろうか。そのあたりを畑芽育さんの表情が夢のように実現していて、少年のバクと並んでも、未来のバクと並んでも、魅力的な「二人組」としてしっくりきた。

面白い映画がたくさんある、と未来のバクは言う。事実、彼の10年間に面白い映画がたくさんあることになる。それはもちろんメイを照らす言葉にもなるんだけど、われわれの時空に対しての祈りであり、映画という表現形式への愛でもある。面白い映画がたくさんある、そうあってほしいしそう信じられる。
(あとこれはキャストを知っていること込みのずるい膨らませ方だけど、さのさんが映画を好きだから、なおさら説得力がある。わたしはさのさんを通して面白い映画に出会っている)

好きな映画聞くところ、ネックレスが消えるところ、自分たちが救いあったことを10年前と同じ会話で確かめ合うところ、が好きでした。とても好きな作品だった!