生の観劇がやっぱ最高最高最高って気持ち/「ウェイトレス」を観た

5ヶ月ぶりに劇場に行き、「ウェイトレス」の東京公演を観てきた。ミュージカルというジャンルに絞ると、現地で観劇したのは2019年5月のレミゼが最後だったらしい。その間、いろいろなことが重なってほとんど舞台が観られない状態が続いた。また観劇ができる体力と財力と心の余裕と時間が戻りつつあることが心から嬉しい。
その場にいて、観客一同のうちのひとりとして曲終わりに拍手できることがこんなに楽しいとは。忘れかけていたというよりも、以前は当たり前だったからここまで気持ちが昂ぶらなかったというのが近い。家でひとりで映像を観ていても拍手はなかなかしない。拍手が舞台上に届くから拍手しているんだと理解した。同様に(もちろん大声を上げての爆笑はできないのであるが)、客席の笑い声の一部になれることが楽しい。面白いから笑うし、面白いぞって伝えるために笑うのが面白い。それ最高!ってパフォーマンスがあればそう伝えるために拍手したりして。しかもしれを見知らぬ人たちと瞬間的に共有できる。舞台ってこんなにコミュニケーションだったんだと感じて、それだけでけっこう序盤から涙ぐんでいた。最高に生きてると思った。
オペラグラスが必要な規模の劇場もずいぶん久しぶりで、調整してもしてもぜんぜん焦点が合わなくて笑ってしまった。それでも、自分の見たいところを自分で選んで見られる面白さは格別だ。今後、映像で舞台を楽しむのがこれまで以上に主流になったとして、どんなに素晴らしいカメラワークが施されたとしても、好きなところを注視する快感は超えられないんじゃないか。見たいものといえば、「ウェイトレス」は小道具に本物を使っていて、パイは食べられるし卵は割れる、生地はこねられるし、オレオの上を外して2つにすることもできる。映像だったら細かく抜かれないそんな芝居以外のこだわりを凝視できるのは現地での観劇ならではで、それを実感するのにうってつけの作品でもあった。
とは言え見たいと思う対象は多くの場合役者だと言っていい。主人公を演じた高畑充希のメリハリの強いお芝居はアメリカらしい空気感に合っていて、この作風を日本でやったときに観客をついてこさせる揺るぎない地盤を作っていたと思う。宮野真守はチャーミングな一面を存分に発揮してコメディシーンを引っ張りつつも、時おり見せる年齢分の時間を着実に生きてきた重みとあいまって、どこか不安定で目の離せない人物像に説得力を持たせた。観劇した回はベッキー役がLiLiCoだったのだが、ソロ曲のあまりのパワフルさに鳥肌が止まらなくなり、今作で一番かっこよかった人として記憶に残った。
 
「ウェイトレス」は人生の転機の物語。真正面から剥き身で差し出されたら重くてつらくて嚥下できないようなストーリーを、あけすけで小気味いい会話にポップでどこか懐かしい曲、ミュージカルというフォーマットと濃淡のはっきりした演出がマイルドにしている。
主人公のジェナはモラハラ配偶者との間に望まぬ妊娠をしてしまう。しかも受診した産婦人科の主治医との不倫から抜け出せなくなる。幼い頃から母親が教えてくれたパイ作りの腕を頼りにパイ作りコンテストの賞金を獲得して配偶者から離れようと目論むが……というのが大体のあらすじで、身近にこんな展開が訪れたらと思うとちょっとぞっとする。結論から言うとジェナは子どもだけを選んで自分自身の人生を生きていくのだが、そうそうできない選択にこの人はなんて強いんだろうと思った。
不倫というモチーフの描き方が今まで見てきたフィクションとは違って、熱中していく様や罪悪感には触れるものの、一貫してややドライな描写に見えた。不倫のドロドロをスパイスに仕立てる演出ではなかったということだ。規範から外れた悪ではなく、人生を生き抜くためにその時々で必要になるリスクを伴った着火剤のひとつとして不倫が扱われていた。それによって、ジェナにとっての不倫が観客にとっての別の何かに置換可能なように普遍化されたのではないか。正解じゃないかもしれないけど、つらい時間を乗り切るために飲む魔法の薬のような行為は誰もがしたことがあるだろうから、そうした不倫の扱いによって、共感できる余地が広がった。
ジェナは強いから特別で、その行為から抜け出して自身の人生に戻ることができたのだと観劇直後は思っていたが、それはあまりにも卑屈すぎた。もっとシンプルに、何かから抜け出したくて何かにすがってしまっている人が、自分の望むままに生きられるときが来るという、明るいメッセージなのだと思う。