ミュージカル『刀剣乱舞』江水散花雪雑感

ミュージカル『刀剣乱舞』江水散花雪を観た。初の生刀ミュ。生どころかこれまでライビュに行ったこともなかったし、配信を含め公演期間中に作品を観るのも初めてだった。初期の作品と真剣乱舞祭をいくつか観たから、経験したような気になっていただけだった。さらに言うならTDCも恐らく3rd比嘉凱旋で行ったきりの約4年ぶり。懐かしさと新鮮さが入り混じって、やや緊張しながら開演を待った。

初期の刀ミュ本丸における刀剣男士の歴史改変や元主に対する言動は彼らの性格、ひいては彼らの持つ(あるいは持たない)物語に起因していた。しかし、本丸の時系列が進むことによって刀剣男士たちの振る舞いの差は練度からも生まれるようになった。最近に顕現したもの、古参のもの、修行から帰ってきたもの。今回の6振りは錬度の差が顕著であり、本丸に来てからどのような経験を積むかによって彼らは変わっていくのだと明確に示された。あの編成はミュージカル刀剣乱舞という作品が持つ歴史の価値を発揮するものであると同時に、刀剣男士にどんな経験をさせるかという審神者の責務の重さを語るものでもある。とりわけ山姥切国広に関して。

刀ミュ本丸の山姥切国広は奇妙だ。一般的に山姥切といえば自分が写しであるという事実に葛藤し、煩悶する存在である。写しというものに悩むことで前進する性質が刀ミュ本丸の彼にはない、とまでは言い切れないが、それを超える別の問題に引きずりこまれており、性格の輪郭が変わってしまっている。内職に精を出す生活感の強いところがあるし、話し方も他の山姥切とは大きく異なる。いや、話し方についてはキャストの実力を加味するべきであるのだが、思うに刀ミュの製作陣ならキャラクターに寄せられるよう如何様にでも導くことができる。あえて異なる存在に見えるようにずらした演出が選択されていると考えられる。

包み隠さず言葉も選ばず正直な気持ちを言えば、バチクソ芝居の上手い王道の山姥切国広が見たかった。こちとら山姥切を初期刀に選んでるんだもん。山姥切が出るっていうからチケット取ったんだもん!(突然の自我) でもまあそう演出されているならそうなのだし、かなり序盤で受け入れた。作品のためにそうである必然性があるからだ。

奇妙な山姥切は、放棄された世界のメタファーだった。初期刀の刀剣破壊という経験によって“正しい”山姥切国広から切り離され、淀んだ存在。今作で放棄されたあの世界に対して刀剣男士たちは何もしてやることができなかったが、山姥切を希死観念の淵から連れ帰ることはできた。バッドエンドの任務を描く本作が失敗の物語で終わらないのは、この山姥切の存在があってのことだ。そして山姥切自身も大包平に全員を生きて連れ帰るという隊長の責務を教えたことで、かつての過ちを少しでも精算できていたらいいと願ってやまない。

 

パフォーマンスについて、水戸学の場面や江戸の町など、市中の人々が歌い踊ったりめいめいの行動をしたりという演出はグランドミュージカル(という定義であっているだろうか)を意識した、革新のそばにある民衆の描き方なのかなと感じた。一握りの武人が世を動かす様に焦点を当てるのではなく、それを普通の人たちがどう見ているか、どんな影響を受けているかをパフォーマンスで見せるという手法。先述の通り自分は初期の数作しか刀ミュを観ていないが、その中にはこういった民衆の描き方はなかったように記憶している。もしかすると直近の他の作品では用いられていたのかもしれないけれど、列強と肩を並べるにはどうすればいいかと検討するタイミングの江戸を描くにあたって、そういった欧米のイメージを持つ演出をするのはぴったりだと思った。



最後に刀剣男士について特に書きとめておきたいことを細々と。
兼さんがかっこよかった。兼さんがかっこよかった! 登場シーンだけでチケ代分の感動を得た。馴染みの刀がいてくれる安心感。いろいろな刀剣男士たちの元主への愛情のあり方を見てきたけれど、兼さんはすごくいい視点にたどり着けたのだなと思った。観劇当日、耳のチューニングが最後まで合わなくて(よくある)歌っている言葉の細部が聞き取れなかったので、早く歌詞と照らし合わせながら聞きなおしたい気持ち。みんながばらばらになっていく中で副隊長的にフォローするのが上手くて、門外漢なりにもそりゃあ副長の刀だもんなあと思って泣きました。あと、二部の衣装の股下が5kmあった。

大包平大包平!!!!!という感じで期待が十分に満たされる気持ちよさだった。声がでかい!!! そしていかにも太刀!!!な大振りだけど無駄のない殺陣が爽快だった。肥前くんとの2部デュエット曲、なんかびっくりしてるうちに終わってびっくりした。2部の曲の振り幅もどんどん大きくなるのだな。そんな肥前くんは背中丸出しで二度びっくり。

 

南泉は今回、刀剣男士の人間を愛してしまうという側面を大きく担う役回りだった。それも、例えばジョ伝の長谷部が恋慕にも似た深い愛情を元主に抱くのとは異なり、一瞬の共闘から友情に発展するという人の姿を得てからの愛だ。刀剣男士にとって、人間への愛情が必ずしも良い方向へ傾くとは限らない。それでも心を捨てず、歴史や人間に向き合う彼らだからこそ、われわれも彼らを愛してしまうのだろう。

小竜くん、どんな刀かほとんど知らなかったけどすごく好きになれた。黒衣ってどんなシステムなんだろうと思ったら本当に黒衣だった。あの衣装もかっこよかったな。マスクをしているのもこのご時勢違和感がなく、長田さんの声の表情と兵藤さんの美しい所作でひとりの刀剣男士が確かに存在していた。最後までこれ以上のアクシデントなく駆け抜けられますように。


20180929.hatenablog.com

 

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2022年2月の記憶

月次ブログ、忘れてたわけじゃないんだけど着手が遅くなった上に書いても書いても終わらなくて月末に間に合わなかった。まだ2ヶ月目なのに。


観劇ツイートは4本分。(劇場版刀ステは観劇にカウントするルール)

 

 

 

 

それから、劇団かもめんたるの「S.ストーリーズ vol.1」も配信で視聴した。なぜ何もリアクションしなかったかというと、最後まで観られなかったからだ。
2019年5月の「宇宙人はクラゲが嫌い」を観ていて、例によって具体的な記憶は残っていないものの、つまらなかったとは思わなかったはずだった。それで気軽に配信を買った。だが今回はとにかく方向性が合わなかった。オムニバス形式の1作目で「おかま」という単語を何の含みもなくただ使っていた(ように感じた)時点で察するところだったが、全体的に笑えなかった。強い言葉を使えば不快感を覚えたので、Youtuberと喫茶店店主たちの話の途中で停止した。

そのあとに同じく配信で観たホスミュも面白くはなかったというのが正直なところで、配信を買うことについて少し悩んだ2月だった。現地で観劇して面白くなかったときは面白くない作品を観劇したという経験が残るが、配信を買って面白くなかったときはなぜこれにお金を払ったのだろうという空しさが残る。家で映像を見るだけならいくらでも楽しめるコンテンツがあふれているじゃないかという思いだ。観劇の分類ではなくYoutubeNetflixと同列の映像コンテンツとみなしている節がある。
ただ、配信視聴を選ぶときの理由が再生開始時点のモチベーションに大きく影響しているというのはあるだろう。今のところ選択の理由は主に二つあって、ひとつはチケットが取れなかったり予定が合わせられなかったりして現地に行けなかった場合。もうひとつは元々現地に行く予定はなく映像でいいかと妥協したり、後から配信の存在を知ってアーカイブを買った場合。前者だったら当然かぶりついて観るし、後者はそこまでかしこまっては観ない。俄然観たい!という気持ちでなくても観られる状況になったことで、「面白くなかった」と断ずるハードルが下がってしまっているのだと思う。

配信については考えていたことがもう1点ある。配信で観れば現地に行くよりはるかに時間的・体力的負荷が下がる。それによって「頑張ればもっと観れたんじゃないか」という焦りが生まれはじめている。例えば、今月はNODA・MAPのフェイクスピアが配信されていた。どう考えても観るべきだったのだが、配信の存在に気付いたときには既にゆっくり時間の取れる休日は残されていなかった。無理をすれば平日に時間を作ることはできたし、外で1本観て帰ってから配信を観るというのも不可能ではなかった。自分が頑張らなかったから観られなかったんだと思うのに十分だった。
観られたかもしれないけど観なかった作品に対して過剰に後悔する必要はないし、「観られる」は「観なくてはいけない」ではない。そのあたりは割り切らないといっそう配信を楽しめなくなりそうな予感がある。あまり思いつめず、これは現地で観たかった!とポジティブに悔しがれる作品に出会えるように配信を活用していきたいところ。

今年になって、観劇したらTwitterでリアクションをするというルールを作った結果、特に言いたいことがないけれど何か呟かなくてはいけないという状況が生まれた。2月になってようやくそれに気付いた。ネガティブな文脈で重ねて登場させて申し訳ないが、前掲のホスミュの感想は直接的な批判を避けようとするあまりほとんど中身がないし、ジョ伝を見終わった後は「長谷部…………」と虚空に向かって呟くしかできなかったためあのざまだ。
特に悩ましいのはつまらなかったときである。今日びいろいろな人がいろいろな目的でエゴサを繰り広げるTwitterにおいて、不用意に人を傷つけるかもしれないあけすけな悪口を垂れ流すことにはさすがに抵抗がある(鍵アカでは好きにさせてもらっているけど)。作品にとって意味のある批評に仕立て上げられればよいが、そういう気持ちにすらなれない日が絶対に訪れる。観た!を表明するのは続けるとしても、そういうときにどうしたいかを改めて考える必要がある。

そんなタイミングで、「鶴かもしれない2022」に際しての小沢さんと徳永さんの対談を読んだ。

epochman.com


その中から、徳永さんの発言を引用する。

私からすると、つまらないと思った作品に正直にダメだったと書いた場合と、本当は言いたいことがあるのに忖度が働いて正直に書けなかった場合では、その後、相手の方にあっけらかんと会えるのは前者なんですね。それまでどんなにいい関係が築けていても、面白くなかった作品を面白かったと書いてしまったら、もうその人と目を見て話せなくなる。


自分は演劇の側にいる人間じゃないから、実際に作品を作った人とのかかわりは発生しないけど、作品そのものへのしこりを残さないようにしたい、ダメなときははっきり書けるようにしたいな、とこの対談を読んで思ったのだった。個人的にも毎回べた褒めしてる人より批判もする人の方が信頼できるし。
「鶴かもしれない」はめちゃくちゃ面白かったので再演があればぜひ観てほしい。推し(若手俳優)にずぶずぶだったころの自分の感想が聞きたい。ダブステもそうだけど、演劇の面白さってこう!と無自覚に思い込んでいるその面白さというものの範囲を拡張してくれる作品に出会うことは、最大の幸福のひとつだ。

最後に映画の感想を少し書いておく。

観よう観ようと思っていた「前科者」をようやく観に行けた。もっと硬派なトーンを想像していたからエンタメ色が強くて困惑した。若い女性(女性に限らずではあるが)が知らない男性の自宅を一人で訪ねるというシチュエーション、過敏なのかもしれないが現代日本のリアリティが感じられなかった。確かに自宅に行かねばつながらないストーリーだけども。それから、どう考えても不要なラブシーンがあったのには幻滅。恋愛要素がなくても観客は前科者と保護司という間柄に十分没入できるし、もっと信頼してくれても……という気持ちがないでもないが、恋愛込みのエンタメとして作っているならわたしの期待がずれていたのかもしれない。

楽しみにしていた「ウエスト・サイド・ストーリー」も観に行った。キャストがすごかったから吹替で観たかったのだが、どうしても時間が合わず字幕で。そもそも普段洋画を観ないから吹替の需要と供給がよくわからないんだけど、吹替の上映一瞬で終わりませんでした?どの作品もこんなもの? 
恥ずかしながらどんな話か一切知らず、曲もTonightしか聞いたことがないという理解度だったものの、スクリーンをただ見つめているだけで面白かった。街と人と衣装とパフォーマンスが全部溶け合ってひとつの画になる。最高峰のミュージカル映画とはこういうもののことを言うのだろうと思った。


他にも刀剣乱舞に出戻りした話や若手俳優についての続報、2.5次元観すぎ問題などトピックはあったが、今月はここまで。3月末まで記憶が持つことを祈る。

……よく考えればこの3つはほぼ同じ話じゃないか?

写真集を買った話

写真集の感想って、一体何を書けばいいのか。
まず、過去の自分にならって書くことを思った。どこかで確実に岩田さんの『Spin』の感想を書いた記憶があったから探したのだが、たいして内容のない一言ツイートしか見つからず、鍵アカに書いてたら遡るのが手間だなあと思って深追いするのをやめた。こういうことがあるからすべての感想は(いかにポンコツな文章だとしても)ブログに集約すべきなのだ。


前回の記事で書いた通り、以下の写真集を買いまして。意外にも、というか推しがまだ写真集を出していないっていうシンプルな理由で、若手俳優の写真集というくくりでは初めて買った写真集になった。

 

写真集なんか普段買わないし、見方がぜんぜん分からない。FCの掲示板(?)で先輩ファン諸兄姉が感想戦をなさっているのを拝読して、こういうふうに言えばいいのか…とようやく輪郭が掴めたような気がする。月額300円で本人からの発信だけでなくファンの良感想が読めるのかなり嬉しいんだが!?


一回通しで眺めてみて、物語性の強い写真が多いなというのが第一印象だった。彼が役者であることを知っているからなのか、映画の観すぎで前後の状況を考えねばという脅迫観念にとらわれているのか。とにかく、好きな1枚を題材にショートムービーのシナリオを練ってくださいって課題があったら任せてくれ!と胸を張るだろう。
 
たとえば、工事現場風の鉄パイプの囲いに腰掛けてあくびをしてる1枚。取り立て屋の役をやってほしくならないか。きらびやかな衣服は彩度の低い風景にはどこか不釣り合いで、地元に逃げてきた対象者を追いかけて都会から出向いて来たヤのつく下っ端のように見えてこないか。口が上手くて女にだらしなくて金の勘定だけはきっちりしててせっかく顔がいいのにあんまり仕事には役立てられてなくて暴力沙汰になるとへっぴりごしだけど決めるとこは決める深夜ドラマの主人公やってくれ。

それから、民家の陰で扇子持って向こうを確認してる写真なんかもそう。チンピラなんだかお上品なんだか分からない紫の柄シャツと扇子・雪駄のバランス、バディものの片方にしたいでしょ。ここは高級スーツを着た真面目系後輩と組ませると思わせて、性格の系統が似てて気の合うタメとセットにしてみるのはどうか。で、実は主人公はその相棒に復讐するために仕事をしていて…みたいなベタなやつ。巻末の裏日記で本人が書いていた、逃げ回るイメージというのもドラマチックさに拍車をかけている。あと文章が普通に面白い。人柄もよく出てるし。嫉妬。また長めのエッセイ読ませてほしい。

一番びっくりしたのは宿の大浴場でシャンプーを流してる写真。生々しくないか!? もっとこう、客室露天風呂で一緒に…みたいな恋人文脈的シチュエーションに寄せることもできただろうに、何でもない行為だけど絶対人には見えない髪洗ってる瞬間を背後から写してるのがツボだった。
ここまで書いてきて、カメラに向かって静止した写真より、動きの途中を切り取った写真の方が好きなのかもしれないな、と自分の好みを他人事のように知る。

あとは、何枚かある地面の上に落ちてる写真が好き。なぜなら顔のいい人間が地面の上に落ちていたら面白いから。
しかめ面の写真も好き。口をぽかんとしてるのも好き。それから、風呂上がりに宿で過ごしてる写真がたくさん載ってるページの次、夜道を歩きながら笑ってる見開きの写真。こういう楽しかった思い出のなんでもない瞬間が走馬灯に出てくる。そういう写真。走馬灯見たことないけど。

彼はかなり目鼻立ちがはっきりしているが、髪形や表情で顔の印象が儚くなったり鋭くなったり、スーパースターのオーラがあるかと思えばそのへんの兄ちゃんにしか見えなかったりする。見ていて飽きない。芝居してるところを生で見るのが楽しみになった。


何にも調べずにAmazonで買ったら、写真集にA5の大判の写真がついてきた。反射的に仕事机の壁に飾った。かわいいものやきれいなものを眺めると仕事中のストレスが緩和されるという噂を聞いたことがあるが、確かに緩和されているようなされていないような…? 効能がまだよく分からないのでしばらくこのままにしておこうと思う。

ファンクラブに入った話

下記のツイートに関するブログは既にこの世に2万件は存在すると思われるが、わたしにも書かせてほしい。
48時間前に聞いてからこのフレーズが頭から離れないのだ。

 

一生役者やるから 一生ファンでいて

こんなこと言えるか? 一生役者やるはまあ個人のことだから生涯現役という表明をする人はいるだろうが、一生ファンでいて? マジで言ってる?

わたしには若手俳優の推しがいる。いや、現場に無条件では行かず内容で選別するようになってから長いし、推しと言っていいかどうかもうよく分からないのだが、このブログで推し(若手俳優)と書いているのは常に同一人物だ。わたしを導いてくれた光、感想を書く楽しさを教えてくれた大事なひとだ(heavy)。

若手俳優を推すことの、少なくともスタートラインに立っていた日があった。そういう日々を思い出す。言われたかったような気がするんだよね、ファンでいてって。離さないって言ってほしかったような気がする。

それから、もし彼のファンとしてこの曲を聞いていたら、どんな気持ちになったんだろうって想像する。そりゃあ1ヵ月半前の動画にたどり着く程度には彼に興味を持っているわけだけど、聞いた時点では部外者なのだからそれは分からないことだ。でも考えてしまうし、夜眠る前や朝起きた後や何かに手をつけようとするときについ「一生役者やるから…」とポエム調でツイートしてしまう。迷惑。

刀ミュを履修中の身として彼の存在は知っていた。鼻リコーダーの人。あとWikiを読んだら1回だけ現地で舞台観てた。彼のシーンではないものの、演出について納得できない点があってブチ切れた思い出の作品だった。それのせいでどんなお芝居をしていたかは覚えていないのだが…。

今日は彼がゲスト出演した某バレンタインイベントの配信を視聴した。白状すると、その前に幕末天狼傳2020のドキュメンタリーを観て12リットル泣いたので、楽しい気持ちになりたくて2部の方のアーカイブを買いました。(この状況下での舞台を知る意味でも、キャス変を経験した者にとっても、非常によいドキュメンタリーだった)

イベント、面白かった。MCできてすごい。話しぶりがやさしい。ライブパート終わった後、本気で反省した顔で戻って来ていい子なんだなと思った。人のイベントに出てはファンをぶんどろうとするという逸話は聞いてたけど、ほんとにやっててウケた。

ウケながら、今だ!って思った。配信のカメラに向かってFCに入るように言われたからっていうこのタイミング、いいじゃんって思った。思ったら止まらない。

そういうわけでFCに入り、ファンになった。さっき写真集も注文した。この人のファンになったら絶対面白いという確信とともに。若手俳優を見つづけることは楽しいって、もう1回思いたいのかもしれない。

2022年1月の記憶

年明けは2年ぶりに実家にいて、家族に対してウケたいという気持ちがあることに気付いた。普段友達と通話するときはオチのない話を前から後ろに向かってダラダラ話しているというのに。家族にだけはウケたいから頑張ってしまう。空回る。
連日死ぬほど寒かったので鍋が食べたいとリクエストしたのだが、結果母を困らせてしまった。我が家は今全員が違う家で暮らしている。それぞれの家から集まった家族たちと同じ鍋をつつくことはできなかった。
自分を起点に新しい家族を持たないと半ば決意したとき(気が変わる余地は常にあるが)、既存の家族たちが生きているうちにもっと愛さねばという気持ちになる。空回る。

数年ぶりにメガネを新調し、度をいじってもらったら3週間くらい慣れなくてずっとうっすら具合が悪かった。異様に肩がこるようになったことと引き換えに、フレームが羽みたいに軽くなってマスク着用時の負担が和らぎ、観劇時の見え方も劇的に向上した。何より今の気分に合っていてかわいい。今年買ってよかったもの暫定1位。

映画「文豪ストレイドッグス BEAST」に通っていた。同一の作品を鑑賞した最高回数を更新し、飲食代だけで中規模の劇場のチケ代に匹敵するくらい出費した。こういう状況になった当初、観劇ができなかったり仕事が変わったりなんやかやで落ち込んでいたわたしを支えてくれたのがアニメと映画館で、この作品がそれらの合流点に思えたからなおさら少しでもよく関わりたいという気持ちがあった。
同じ作品を繰り返し見ることは面白かった。もちろん作品が面白いというは大前提として、推し(若手俳優)を推していたときのことを思い出せたから。鑑賞自体はまったく苦痛ではなかったが、一方で面白い感想を言わなくてはという強迫観念があった。
面白い感想というのとはまた別に、自分の書く文章がもっと面白かったらいいのに、という悔しさをしばらくぶりに感じた。何についても書けたら満点の姿勢でやっていたつもりだったが、野心のようなものが残っているのかもしれない。意外。

この流れで書くと完全に動機が見えるのだが、映画「どうしても触れたくない」を配信レンタルで観た。観始めてすぐは商業BLの定石を知らないことに起因する個人的な心もとなさがあったが、ストーリー的にもカメラワーク的にもすごく引いた視点が印象的で、好きな感触の邦画だった。子どもがほしい人間を好きになってしまうことはセクシュアリティに関わらずかなり身近な問題だと思った。
最近知人が出産して、ジルベールとケンジ(『きのう何食べた?』)のやりとりを頻繁に思い出している。

思えば今月は喫煙者の出てくる作品を観ることが多く、喫煙という仕草についてよく考えていた。例えばTシャツを脱ぐときの手つきに個性があるように喫煙にも個性があり、かつそれがプライベートな色を含むときにセクシーに見えると結論付けた。

特にリアクションしなかったけど「呪術廻戦 0」も観に行った。全体的に話がコンパクトにまとまっているように感じた。もっと説明したほうが分かりやすいかもしれないポイントを全部切り捨ててスピードに全振りしたような。でもそれで物足りなさを感じないからうまくいっているんだと思う。

アニメはあまり観なかった。昨年ジョジョ6部の先行配信を一気見したあと3部を追いかけながら2クール目を待っていたが、中旬から気持ちが疲れてきて(明らかに映画の観すぎ)Youtubeしか見なくなっていった。主にぼくたちのあそびばを流しっぱなしにしている。JGRもたまに流すけど、今のとこ事務所への解像度が低すぎて面白さがよくわからん。ここしばらくSixTONESが好きなのだが、そういえばまだブログでは言及してないや。

観劇は3本。(劇場版刀ステは微妙だけど観劇にカウント)

 

 

 

フィクションが現実世界と結びつくことで生まれる確かさがここ数日の自分の中で流行っている。「BEAST」が実際の横浜のカットを丁寧に挿入していることとか、刀ステの史実の取り入れ方もそう。完全に架空の世界のみで進行する作品と対比して理由を考える必要はあるが、現実と混じることでフィクションの世界が開ける感覚があり急に面白く感じ始めた。

前は感想を書くと書いた内容を覚えていられたのだが、今は何を書いたか全く思い出せない。シンプルに頭が不安。

レッツゴー最高の人生その3

2024年をわたしのパーフェクトイヤーにするというよくわからんゴールを設定してから、この1年間の人生振り返りブログも3回目を迎える運びとなった。5年計画だったので早くも折り返しである。何をもってパーフェクトとするかというのは当時の自分がぼんやりとしか書いていないのでもはや後付けするしかないのだが、5年後の自分が幸せであってほしいと願っていたような気がする。
2021年はかなり幸せだった。仕事は楽しく(もちろん四六時中悪態をつきながらやっているが、それに見合う評価を受けてがしがし稼いでいる充実感がある)、趣味も楽しく、何よりかなり元気だった2018年並みに観劇をすることができた。

最近よく想像する。少なくとも今から5年後の自分は今とまったく同じ暮らしをしていても十分幸せだろうということ。そこそこ稼いで好きなだけ舞台を観れさえすれば特筆すべき不満は感じない。そういうわたしであるだろうと思う。しかし、20年後30年後には自信が持てない。親は元気でいるのか? 元気でなければ何かしてやれているのか? 友達も恋人もいない中年の一人暮らしで胸を張って楽しいと言えるのか? 周囲から掛けられるかもしれない不躾な言葉や視線に耐えられるのか? 起こりうる問題を仮定することは出来るが、それらを抱えている自分も、具体的な解決策も何も浮かばない。不安未満の漠然とした疑問だ。

一方でもっと遠い未来については具体的な目標が生まれた。死ぬぎりぎりまで一人で劇場に行って帰って来られる体を維持するということだ。余生を過ごす段になって知らない人々と同じ建物で暮らすのも避けたいので、ケアホーム的なところには入らず、自活を貫いて人生を締めたいなあと思う。今だってもう2日連続で劇場や映画館に行くのがしんどくて、なるべく週1に分散させるように予定を組んでいるというのに、果たして達成できるものだろうか。

去年おととしは具体的に行動や考えの変化についてまとめていたが、今年はマジで記憶がない。日に日に過去のことを思い出さなくなっていって、それは過去のことを思い出せないことになった。前が思い出しすぎの記憶しすぎだったと思うのだが、思い出そうとしても思い出せないことは多少不便だ。とはいえ今年はこれ含めて19本も記事を書いたようで(暇だったのか?)、その時々で考えたことはブログを読み返せば大体分かりそうだ。助かる。ありがとう過去の自分。

昨年末に立てた今年の目標は、会いたい人に会いに行くだった。終わってみれば絶対に会いたいと感じる人はそこまで多くならなったが、状況と体力の許す限り外に出て行けたことには満足している。あと、1年ぶりに帰省して家族に会えたのもよかった。帰省ガチ勢だったわたしがこんな感想を言う日が来るとは…。

来年の目標はこの3年の中で最も具体的に考えてある。
PCを買い替える。ロボット掃除機の導入を検討する。プールに通う。今年の下半期、観劇したあとに長いブログを書く気力がなかったことを反省して、来年はとにかく早くTwitterでいいから確実にリアクションを取る。
これまでの3年間で人生は大きく方向転換し、快方に向かっているような気がする。人生という大きい部分から生活という細々した部分に踏み込んで、現実を改良する1年にしたい。

カルナイのことがこんなに好きだったんだ

カルナイファンの者です。担当はカミュです。
プリライ7thステージに1日目をライビュで、2日目を配信で参戦しました。
カルナイの話をするためにブログを書いています。

カルナイが好き、カルナイの音楽とハーモニーが好き、カルナイの4人が好き、何よりうたプリのライブが大好き。だからプリライを観ない選択肢はなかったんだけど、あんまり心の準備はしていなかった。前日になって少し考えたけど、3人のカルナイなんて想像できないわけです。すんなり受け入れてしまう自分がいたらそれは怖いことだし、かといって気持ちがぐちゃぐちゃになってしまうのも怖い。漠然と不安を感じていた。

7thステージがはじまってST☆RISHが出てきて、ああこれこれ!になったし、うたプリファンと同時にマモファンでもある自分は今日マモビジュよすぎない?と現金にも大喜びです。一瞬これから待ち受けていることを忘れるも、カルナイのロゴが大写しになってすぐ思い出した。

TWIMのアカペラからはじまるの、あまりにも鬼畜すぎないか。だっていちばん4人であるべきところだよ。そこからもう涙が止まらなくて、サーベル持って踊っている…マジLOVEキングダムの演出だ…というのはうっすら感知しているものの、情報がぜんぜん入ってこない。もうダメかもって思った。モニターに4人のメンカラのダイヤのモチーフが出るところとかもう泣き崩れてた。こんなんもう絶対忘れられない日になっちゃうよ…(茶化さないとやってらんない)。

次のHE★VENSで、欠席のナギの黄色のリングライトを6人がつけて出てきて、それにAメロぐらいで気付いたんだけど、そこでまた涙腺が決壊してしまって。すごくつらい言い方になってしまうけど、言葉を選ばずに言えば、ああ蘭丸はそういうこともしてもらえないんだって思ってしまった。いや、わかってるよ。リングライトHE★VENSだからできることなんだって。あの7人の特別な仲の良さがあるから、みんなで一緒にナギを背負えるんだよね。カルナイは違うもん。絆はあっても友達でも家族でもないから。HE★VENSとの差を責めるつもりなんてぜんぜんない。それでも、蘭丸の不在を黄色のリングライトが強く感じさせた。

カルナイパートに入って、DONは初披露だったせいもあってあまりつらくならなかったものの、いつもならかっこいいパフォーマンスを一緒に作ってくれるダンサーズがいることで、ステージ上に3人しかいないことを感じた(何を見ても今日は3人だけという事実につなげてしまう心境)。ここからソロ曲が続いたあと、森久保さんがなんかしゃべってるからMCかな?と思ったらよく聞くと後ろで聞き覚えのあるベースが…、流れていて…、森久保さんが…、ダンシンなナンバーを…、やろうかなとか言っていて…、それがようやく理解できた瞬間に号泣だった。大の大人がライビュ会場で人目もはばからず号泣だよ。嗚咽が抑えられなくて顔なんかもうぜんぜん上げらんなくて、初日はパフォーマンスをしっかり見れていなかった。スタンドマイクにスポットライトが当たっててさ。いつものONLY ONEのあのサビの振りを森久保さんと蒼井さんと前野さんが踊ってるの。大サビでマイクがちゃんと下のセンターに降りてきてて。ずっと泣いてた。

2日目、家で気持ちを落ち着けてONLY ONEに臨んでようやく気付いたんだけど、スタンドマイクがポップアップで上がってくるときにマイク前の視点のカットが使われてたのね。蘭丸の視点だよ。メトドのこの光景を、蘭丸に見せてあげられたんだよ。それがすごく嬉しくて。こういう演出にしてくれたスタッフさん、本当にありがとうございます。現地だった方は円盤で一緒にワインレッドの光る草原を見ましょう。

初日のスタリパートが終わったあとに、あっソロ曲ないんだってびっくりした。この話は本当にセンシティブなんだけど、カルナイだけある種特別にソロ曲を歌わせてもらっているように見えた。でも今回は、蘭丸のために他の3人がソロ曲をパフォーマンスしたんだよね。あの間にグループの新曲を2曲か3曲か歌えたかもしれない。けどしなかった。3人とも他の曲でもけっこう振りついてるのに(特に蒼井さんはUDUがあるからずっと踊っているし)、それでもなお振り盛りだくさんでパフォーマンスしてくれた。ソロ曲じゃないと蘭丸をあそこまでくっきり見せられないから。

MCパートでも、最後のご挨拶の方でも言ってたと思うけど、森久保さんがカルナイ4人とぼくらっていう表現をずっとしてくれてて。ランランもいるからねっていうのをしっかり言葉にしてくれたのがすごく安心した。やっぱカルナイの危機をつないでくれるのは嶺二くんだって思ったし、改めて森久保さんが嶺二くんでよかったなって思いました。

MCでようやく落ち着いてくるも、MC明けの曲がKIZUNAだったことによってまた決壊。ただでさえビチョビチョなのに、嶺二くんの助手席…ファンには絶対見せないカミュの嫌そうな顔…藍ちゃんのやれやれ顔…そして2Aで嶺二くんが一緒に歌ってくれてるのがすごくよく分かって、まさか蘭丸が見ている世界をこんなふうに感じられると思わなかったから嬉しかった。3人の努力ももちろんなんだけど、演出ってこんなにも一人のアイドルの存在を色濃く形作れるものなんだって心底感動した。ありがとうございます。

KIZUNAのいちばん最後の一連のフレーズって、4人でステージの真ん中にこちゃっと集まって、ほぼアカペラで歌うのがお決まりじゃないですか。それが今回は3人別々の場所に立って、それでもいつものハーモニーを聞かせてくれた。今は別々の場所にいても4人でカルナイなんだっていう主張だった。そうだよね、4人でカルナイだもんね。カルナイの4人が大好き。4人のカルナイが大好きだよ。

今回のことは、わたしたちファンにとってもしかしたら、いやもしかしなくても、経験する必要のない経験だったと思う。つらくて悲しい経験だった。それをポジティブな言葉で描写してまるでいい思い出になったかのように上書きするつもりは一切ない。でも、それでも、カルナイ3人でやり遂げたこのプリライが、蘭丸に対する気持ちと、4人であるカルナイに対する思いがどんなに強いかをわたしに確かめさせた。今回がなかったら、自分がこんなにもカルナイを愛していることを知らなかったかもしれない。だから、今度は4人のパフォーマンスでそれを超える気持ちを感じさせてほしい。

ONLY ONEって、リベンジの曲なんだよね。5thを乗り越えてカルライにたどり着いたように、今日を乗り越えて次がある。それを示すのにこれ以上ふさわしい曲はない。待ってる、という言葉が正しいのか自信はないけど、次があるってずっと思っているからね。