ストレスに抗うための買ってよかったものリスト

人生、それはストレス。
一部Amazonのリンクを貼っていますが、アソシエイトではありません。

 

防水スピーカー

メンタルがやられているときの鬼門のひとつといえば入浴。
退勤直後や食事中であれば、いくらでも気を紛らわせられるけど(YouTubeを流しながらゲームをしながらTwitterをする等)、入浴中はどうしても頭が暇になってしまう。
頭が暇だとロクなことを考えないので、危ない。とても危ない。
どうにかして入浴中に余計なことを考えないようにしよう、と防水スピーカーを買った。

LFS ミニ Bluetooth スピーカー

風呂場で音楽を流せるようになったおかげで、思い出し激怒をすることが格段に減った。
風呂に入るような時間帯にキレていると寝付けない可能性が高まるため、本当に助かっている。
入浴がつらいわ!というひとで、浴室にスピーカーを導入していない場合はぜひ試してほしいと思う。

今の家は浴室乾燥機がついているため、物干し竿にストラップをひっかけて使っている。
ちなみにこれは2台目。1台目はストラップなしのものを買い、不注意により数ヶ月のうちに水没させてしまった。
高い位置にぶら下がっていれば濡れる心配も少ない。

本体は握りこぶしより気持ち小さいが、結構大きめの音が出る。
音の良し悪しははっきり言ってよくわからない。
でも電池の持ちが異様によくて、購入から5ヶ月で1回しか充電したことがない。
お風呂済ませるぞ!となったときに電池が切れてると心がくじけるので、充電回数が減らせるのはかなりありがたい。

それでも仕事のことを考えてしまうときは匿名ラジオをかけている。

www.youtube.com

現実感という現実感を根こそぎなくしてくれるので、何も考えたくないときにおすすめです。

 

マツキヨの胃薬

ストレスによる胃痛がやばい時期が多い。
そして胃痛によるストレスでさらに過食する最悪のスパイラルを永遠に繰り返してしまう。
しかも、この世の胃薬は総じてまずすぎないか?
錠剤も粉薬も異様に主張の強い味で、スースーして気持ち悪く、飲みこむ前に一生えずいてしまう。
何度箱ごと薬を捨てたかわからない。
体力をゴリゴリに削られながらストレス(主に仕事)が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。

そんなときにたまたま買ったのがマツキヨの粉末タイプの胃薬。

www.matsukiyo.co.jp

胃薬にしては破格なほどに味の主張が少ない。
ベースの味は子ども用の粉薬みたいな曖昧な甘さをイメージしてもらえればいいと思う。
スースー感も薄い。粒子も小さくて、水をごくごく飲めば比較的早く口の中からいなくなる。

総合胃薬とあるとおり、もっとピンポイントにストレスや食べ過ぎに効くものはあると思う。
1日で胃痛が全部解決!みたいな即効性もない。
でも明らかに痛みが和らぐので、今では手放せない。36包入りを常備している。

 

睡眠の質を上げるサプリ

ストレスによる寝つきの悪さがやばい時期が多い。
その日に起きたことを延々と思い出してイライラしたり、翌日の打ち合わせのことを考えて不安になったりしてしまう。
先述の通り不安よりは怒りが強いタイプなので以前は漢方薬を使っていたのだが、だいぶ値が張るうえに効果がはっきりしなくてやめてしまった。

あるときけっこうな多ステのスケジュールを組んだことがあり、寝不足ヘロヘロ状態での観劇を回避するために調べたのが、睡眠の質を上げる目的のサプリメント
わたしの場合は寝つきが異常に悪いがまったく眠れないわけではなかったので、睡眠導入剤を試す前に眠れている時間でもっと回復できないか、という考えでサプリを飲んでみることにした。

ネナイトというそのまんまの名前。

www.asahi-gf.co.jp

決め手はやっぱり値段。手が出しやすかったからこれにした。

寝る前に4粒飲むというもので、だいたい布団に入る40分前に飲んでおくといい感じに眠れる。
プラシーボかもしれないが、これははっきり効いた。

あと、4粒というのは最大値で、今日は不安感が少ないから2粒にしとくか、みたいな調整ができるのもいい。
単純に、眠れるはずの日に無駄撃ちしなくて済むというのもあるけど、今日は大丈夫かどうかかが0~4の間で可視化できるので、飲まない=眠れる日という意識づけができたのもよかったと思う。
今は飲んでないです。120粒×2袋で卒業できた。

マツキヨのボディミルク

数年前の転職活動をきっかけに、季節の変わり目にストレスがかかると体中に謎の湿疹が無限湧きするようになってしまった。
本当に体中に出るため、見た目のむごさもさることながら、かゆうてかゆうて仕事にならなかった。
最初の2年半くらいは原因がまったく分からず、何かの菌のせいではないかとかアレルギーかもしれないとかいろいろな診断を受けたのだが、
ある日かかった皮膚科で乾燥肌では?と言われ、それ以来ボディクリームをかかさず塗ったところ、再発しなくなったのだった。
先生ありがとう、本当に救われました。

最初は無難にニベアを使っていたのだが、ボトルから出すのがとにかく面倒くさい。
また、ニベアの匂いが寝間着につくのが嫌だった(匂い自体は好きだが、とにかく服にベタベタついて存在感が残る)。

そこで再びマツキヨ。

www.matsukiyo.co.jp

マツキヨの恩恵を受けすぎている。

ポンプタイプのかなりゆるいテクスチャのミルクで、どんどこ出してガッと広げられるのがいい。
保湿力はそこそこだが、適当に塗っても確実にマイナスをゼロまで引き上げてくれるのが気に入っている。
無香料だし、べたつかないので服にも残らない。

あと、安い。
手が届く範囲すべてに毎晩塗らないと痒みの予兆が出るときがあるので、ケチらず使える価格帯がありがたい。
だいたいどこでも手に入るのもいい。マツキヨの恩恵を受けすぎている。

いい匂いがついてるものも別で買っておいて、元気がないときにはそれを塗ったりしている。
ときどきだったらボトルタイプでもめんどくさくないしね。

 

乱視用コンタクト

ド近眼・乱視・ひどいドライアイの三重苦で万年眼鏡をかけているが、コンタクトを入れたいときもある。
美容院で雑誌を読むときとか、衣類や化粧品を買いに行くときとか、推しに会うときとか。
子どもの頃から使ってはいて、コンタクト自体に抵抗はないものの、とにかくすぐに視界が悪化する。
乾いて目に貼り付いているのかわからないが、小一時間もすると裸眼のときくらい近付けないと細かい字が見えなくなった。
コンタクトの意味、ある?

不便さもあって使用頻度が上がらず、以前に買ったものをちまちま使っていたのだが、あるとき急に元気が出て眼科に行き、いろいろ相談して新しいものを選んだ。
乱視用は候補が限られるから、ゆうてもしっくりくるものがあるかは分かりませんね、という気持ちだったのだが。

acuvuevision.jp

快適になった。
試しに着けさせてもらったときもくっきり見えるなと思ったが、実際に日常生活で5時間つけていても視界がクリアなままで驚いた。
前に使っていたものよりも、酸素がたくさん届くタイプとのこと。

メーカー選びを手伝ってくれた看護師さん曰く、乱視用コンタクトは装着時の角度が決まっていて、目の中で回らないようにする特殊な形状になっているらしい(うろ覚え)。
その説明を聞いたことで、若干の違和感は形状によるものだとわかって、それで気にならなくなったというのもひとつあるかもしれない。
丁寧に説明してくれる方でよかった。(買ってよかったものの話か?)

でも、コンタクト装着時にはっきり自分の顔が見えるようになったことで、わたしはやっぱり眼鏡が似合うなあ!と改めて思いました…。

 

拭き取り化粧水

睡眠の話に戻ると、今夏の酷暑により、せっかく寝付いても夜中に汗びっちょりで何度も起きるという時期が長く続いた。
そのせいなのか、あるいは慢性的な運動不足か、あるとき顔面が異様にくすんでいることに気付いた。
触った感じもごわごわしていて、丁寧にメイクをしてもボソボソした印象の疲れ顔になる。

いよいよ年齢か!?とびびり散らかして高い美容液でも買おうかと思っていたところ、別件で寄ったコスメカウンターでBAさんがおすすめしてくれたのが拭き取り化粧水。

www.ipsa.co.jp

1ヶ月半くらいで疲労感がすっかり消えた。個人の感想ではあるけれど、誇張なしのやつ。
この年になるまで拭き取りタイプは使ったことがなく、他と比較もしていないのだが、今後も顔面が疲れたらいったんIPSAに駆け込むと思う。

あと、もともとは久々に化粧水をIPSAに戻そうかなという用事だったんだけど、これこれ!と思って使っている。これはストレス関係ないですね。

 

結論、基本的なメンタルと健康が整うと、基礎化粧品のことまで考える余裕ができて元気が出る。おしまい。

パンを買いに

24時前に就寝して、7時前に起床するという習慣を獲得しなおせたのは、2月に入ってからだったように思う。昨年の8月末に決定的にメンタルがやられてからしばらく、うまく眠れないことが多かった気がする。もう、鮮明には覚えていない。

年末年始は帰省せずにひとりで過ごした。ひとりというのは、本当にひとりということで、一度映画館に行った以外はずっと家にこもって、YouTubeを見たりときどきお酒を飲んだりして過ごした。映画は面白かったけれど、気力がなくてそれがどのくらい面白いのかがそのときはピンと来ていなかった。

YouTube、正確には蘭たんのFE風花雪月アーカイブを見ていたのだが、これにはとても助けられた。たくさん泣いて、ソシャゲをぽちぽちしたりご飯を食べたりしながらじっと座って何時間も見た。蘭たんを知ったのは昨年6月頃、ときメモGS3きっかけだったが、それから数ヶ月のうちに普段コンシューマーゲームをやらないわたしが2作、Switchのソフトを買って自分でもプレイした。まだどっちもクリアしてないけど。グノーシアもやってみたいな、と思って見ている。人狼苦手だけど。

毎年大晦日に書くはずのブログは、精神を病んでいるときのおしまいの文章にしかならず、一度はアップしたがあまりにもつらそうなので今は下げている。書き直そうかなと思うことはあるが、もう去年の記憶はない。

今はだいぶ回復してきて、多少過食気味の傾向にあるものの、夜は何の苦痛もなく眠れて毎日自動的に目が覚める。素晴らしいことだ。

できていたはずのことができなくなっているという事実に直面するのが怖い、けれどいつかそれをまたしたくなったときに、ゼロからやりなおしになるのはもっと怖くて、できた!とまったくできてないぜ馬鹿め…を繰り返しながら未練たらしく取り組んでいる、というのが近況と言える。舞台や映画は変わらずよく観ているが、感想を書く習慣がすっかりなくなってしまった。最初のうちは書けるはずの感想が何も言えないことに申し訳なさがあったが、最近は純粋に楽しむことを第一に、安全な鑑賞態度をとるよう心がけている、気がする。

気持ちも体もだいぶマシで、なにかきっかけがあれば元気にはしゃぎ回れるような気がするが、そのきっかけをつかむのがいつも難しい。とはいえ、こうして思い立ってだらだらと文章が書けるくらいには復調したのだから、それを喜ぶべきなのかもしれない。

天気がよくてどこか出かけたい気分だったので、朝ごはんにパンを食べながらパンの百名店を調べて、好きそうなタイプのお店を見繕ってすぐに出発した。パン屋に行くのは好き。コロナ禍で映画館すら閉まっていたとき、家から出るモチベーションがまったくない中で、パン屋は自分にとって外出の目的地として十分すぎるほどに楽しい場所だということに気づいた。でもパンは無限に食べられるから、過食気味のときに食べるにはあまり向いていなかったりする。血糖値対策で何かしらの野菜は用意するようにしているけど、パンが美味しければおかずもバターもいらないし、タンパク質をとるのが難しい。

電車に乗っている途中で急に意識がはっきりして、ブログを書いておこうという気分になった。一瞬だけ意識がはっきりする瞬間を逃さないようにすることが、いまはすごく重要であるように思う。例えば、最近ではボロボロになっていた外出用の鞄を買い替えることができた。前からほしい香水があるので、次に意識がはっきりしたら買いに行きたい。

パン屋からの帰り道に巨大なチェーンのカフェ(スタバじゃないとこ)があったので、入ってアイスティーを飲む。真夏以外はホットティーを頼むが、今日は真夏の気温になるだろう。これはつい先日に気づいたことだけど、気分転換のためだけに明るいチェーンのカフェに行ってお茶を飲むことは、かなり気が確かになる。朝型の人間として、早朝から開いていることも嬉しい。何もすることがない土曜日の朝は、近所でお茶を飲むことにする。

再演が気付かせてくれたこと/舞台「風が強く吹いている」2023に寄せて

 

0.

まず初めに言っておかなくてはいけないことは、個人的には今年の再演を素晴らしいとは思わなかったということだ。すべてを褒めたたえる感想を探している人は読まないでほしい。なぜそのようなことをわざわざ書くかというと、2021年版をべた褒めした経緯があるからだ。

 

20180929.hatenablog.com

 

もしこの作品が年に何作か観る原作もののひとつでしかなかったとしたら、Twitterでリアクションを取った時点で終わりにしていい。だが、自分にとって風強はそうではない。だから、また最高の状態で再々演されることを心から期待して、何がよくないと思ったのかと、その上で新たに発見できた舞台化する意味について書いていく。


1-1.

再演の劇場が決まったときからひとつ懸念があった。前回の六行会ホールは248席。それに対して今回のシアター1010は2階席含め701席を有する。劇場の規模があまりにも違いすぎる。

広大なスペースがなくても風強という作品の魅力を十分に見せられるということは既に証明されていた。むしろ、あの演出をどう拡張すれば劇場にフィットするのかの方が悩ましい。それでも、ある種演出の力の見せ所ともいえる差異は、楽しみでもあった。

しかし幕が開いてみれば、自分の目にはシアター1010の広さに対応できているようには見えなかった。

全体を通してアオタケが最も違和感の大きい場所だった。舞台の幅をめいっぱい使っているせいで、室内がものすごく広いのだ。10人が揃って座っても、埋まりようのない空間がそこにあった。転換の問題もあるし、物で埋めるのは難しいとはわかっている。でも照明で部屋の範囲を絞った上で全員でもっと寄って座るとか、何かしらの策が見えてもよかったのでは…。

アオタケの密集感は何も設定やイメージに忠実であるためだけに必要なわけではない。日常シーンで寛政メンバーの関係性を知ることで、箱根での襷リレー時のやり取りの切実さにより没入できる。何より8区のキングの独白を理解するには、誰と誰がつるんでいるのかを肌で感じておくべきだ。舞台で初めてストーリーを知った人はあのだだっぴろいアオタケのシーンからそれらを読み取らなくてはいけない。原作や他のメディアの記憶の中からその情報を呼び出すことのできる作品ファンとは違う。

2021年版で印象的だった演出に、紗幕・暗幕を使ってシーンごとに奥行きを調整するというものがあった。工夫によって限られたスペースを効果的に使っていて、空間への感度の高い演出に心が震えた。それがあったからこそ、今回のアオタケには持っているはずの力を発揮できていない感があり、ひいては先述の日常シーンの伝達が手薄になっている印象につながってしまった。


1-2.

もう一点、大きく感触が変わったのが走りのシーンだ。ルームランナーを使用した2009年の演出に縛られず、2021年は舞台上で走る・足踏みするという素直なアプローチをすることで大成功を収めたと言っていい。今回も基本的な考え方は同じで、あの演出は疑いようなく観客の心を揺さぶったことと思う。

だが、劇場の拡大によって足音がこぼれ落ちた。シアター1010において、キャストはピンマイクをつけられている。その結果、恐らくは呼吸音を必要以上に拾わないようにする目的で、セリフのない走行シーンではマイクが切られていることが多かった。これが作用して、走るときの足音が客席まで届きづらくなっているのだ。

今回自分は2階席での観劇だったため、なおさら強く音の欠落を感じたというのは間違いない。でも、1階席の後方には聞こえていたのだろうか。客席の半分ほどの人には走行シーンの足音が聞こえなかったんじゃないか。

音については物語を追う上でなくてもまったく支障がない。アオタケの件とは違う。だが、2021年に自分が感動した集団走で地面を激しく叩く足音は、偶発的に届けられた情報だったのか。あるいは、足音が最も魅力的な要素の一つであることを、作品側が自覚していないのかもわからない。そういう予感に不安を感じた。

結局は、劇場へ適応できていなかったことそのものよりも、2021年に確かに通じ合えたはずの作品と実は分かり合えていなかったという事実があぶりだされたこと、それに対する複雑な気持ちを、自分は乗り越えられずにいる。期待していた部分が作り手に重要視されていないかもしれないというのを目の当たりにするのは寂しいことなのだと初めて知った。


2-1.

再演の情報が出たときの第一印象は、そうか、舞台「風が強く吹いている」もいよいよ商業的な流れの中に取り込まれたのか、ということだった。テレビを見る人なら誰もが知っているトップアイドルを主演に据えて、きっと彼のファンの人もたくさん観に来るだろう。チケットは取れるのだろうか……。

もちろん映画化したときのキャストだってすごかった。当時はドラマ「のだめカンタービレ」や「ROOKIES」に夢中になっていたし、周囲がみんな『バッテリー』にはまっていたため映画をチェックしている人も多かった。

けれども、舞台版はこれまで演劇に軸足を置いた若い俳優たちが集まって作られてきた。そこに突然ジャニーズの、しかもデビューしたてなどでもない人がキャスティングされた衝撃は大きかった。だが、自分は偶然2017年の「サクラパパオー」を観に行っていた。そのとき、彼に対して何か悪い印象を持ったような記憶はなく、年齢的には少し気になるが、舞台経験も多いようだから心配せずに待っていればよい、と思っていた。

思っていたのだが、わたしが舞台上の彼にハイジさんを見ることは最後までなかった。恐らく、それは彼自身の問題ではない。前の舞台の本番が12月22日まであり、並行して年末の歌番組にカウコンにとずっと忙しなくグループ活動をされていたことは想像に難くない。そして風強の本番は1月18日にもう始まっているのだ。

ごく限られた時間の中で、飄々としたハイジさんの佇まいを流れるようなセリフ回しに落とし込めるのか。誰よりも成熟した走りへの思いを体現できるのか。周囲に見せる箱根への情熱と内に秘めた走ることへの渇望、いくつもの層をなすハイジさんの感情を自在に隠匿し、あるいは表出させられるのか。これが、本当に適切なスケジュールだったのか?

とはいえ、わたしが最も好きな登場人物はハイジさんだ。後述するブレの個人的な受容度は、ハイジさんに対するときだけどうしても低くなる。ハイジさんをハイジさんとして認識するときの判断は相当に厳格になっているだろう。今年のハイジさんも素晴らしかったと思った人のことを否定するつもりはないことを念のため書き添えておく。


2-2.

一方で、カケルに対してはまた新しい解釈の人物像が生まれた喜びがあった。2021年の蔵原走のことはかわいいと評したが、今年のカケルは一言でいえばピュア。荒削りな情熱を持ち、他者とぶつかったときの温度が高いところは今まで通りのカケル像なのだが、藤岡に向ける感情が新鮮だった。

六道大の藤岡は、カケルがほしいもののほとんどを持っている。名実ともに大学ナンバーワンの速さと強さ、恵まれた練習環境、そして清瀬灰二という人間への深い理解。記録会での藤岡の走りをきっかけに、カケルはスランプへと落ちていく。藤岡に強い憧憬と反骨精神や嫉妬心を同時に抱き、それでも彼への敬愛を認めて自身も強くなる。それがカケルだと思っていた。

しかし、今年のカケルは違う。スランプから抜け出すよりも早く、藤岡を目の前にして屈託なく「あなたの走りを見に来た」と言ってのけた。きっと彼は自分の中の葛藤のすべてを自覚しているわけではないのだ。ただ本能的に藤岡の走りに惹かれ、何の駆け引きもなくそれを無垢にさらけ出す。これまではカケルの内面の苦悩に焦点がいっていたが、悩みのすべてが態度に出ていなくても、彼の輪郭は変わらないのだと理解した。


3.

必ずしもその人物を構築するすべての要素が維持されていなくてもよいということは、初期のメディア化の頃から示されていたことだった。端的に言えば、キングの多様化である。人物像のブレの範囲は作品がいろいろなメディアを経験することで広がっていった。王子がゲーム配信をしてもいい。ユキがジャズを聞いてもいい。そして、カケルが藤岡に対してピュアでもいい。その人をその人たらしめる核を確かに持っていれば、枝葉の部分の多様性は「風が強く吹いている」という作品が受け入れてくれる。

寛政大は寄せ集めのチームだ。彼らは陸上とは無関係の理由で各自アオタケにたどり着き、暮らしていた。それをハイジさんが束ねて箱根を目指すのだから、前提の部分はある程度の融通が利く。誰でもいいわけではない。けれど何より、そこに存在して走りに向き合う素質があることが肝要なのだ。そう考えると、風強の舞台化のためにキャストを集めることは、ハイジさんのやったことに少しだけ重なる気がする。

舞台「風が強く吹いている」は、キャストを固定せずに再演していくことで幾通りもの可能性を魅力的に提示してくれると確信している。いろいろなひとが、様々な場所で箱根に向き合うだろう。そのときに、また舞台作品としての最高を更新してくれることを期待して、次回公演のアナウンスを楽しみに待ちたいと思う。

 

 

追記

書き込む隙がなかったが、今回お芝居の面で最も記憶に残ったのはジョータ役の二葉勇くんだった。3区を走りながら、ジョータは弟の走りへの情熱を語る。そして、自分が走るのはここまでだ、とも。それがあまりにも真に迫っていて、彼はこの作品が終わったら要くんにすべてを託して役者を引退してしまうのではないかとすら思った。そんなわけはないのに。双子の役を双子が演じる深みをこれまでで一番強く感じ、作品の柔軟さに気づく一方で、誰でもいいわけではないという面も印象に刻まれた公演だった。

最近の日記

用事があって地元の祖母に電話をかけた。いろいろなことが重なり、かれこれ2年近く会話もできていなかった祖母である。何歳になったの?と問われて数えの年齢を答えると、「彼氏はいないのか?」が始まってしまった。
定番のやつがいよいよわたしのところにも来たな、と思った。むしろこれまで直接的に恋人や結婚についての話題が親族間でまったく出なかったのは幸運、もしくは不自然と言ってもいいくらいだ。
付き合っている人間はいないよ、結婚も当分はないよと、喧嘩になったり不安を与えたりしないように穏やかに答えたつもりだ。それを聞いて祖母は言った。
つまらない男に引っかかってつまらない思いをするより、ひとりで生きて行った方があんたのためになるよ、都会だったら誰もわざわざ悪いふうに言わないでしょ、と。
それはもうめちゃくちゃ驚いた。80歳はゆうに超える年齢の、ずっと田舎で暮らして来た彼女であるし、かなり若い年齢で祖父と結婚しているのだが、孫から見た2人はそこそこ仲がよくて、個人的な体験として結婚にネガティブなことを思うきっかけはないように思ったからだ。
でも、生きてきた時代や環境を考慮しないで考えてみると、なんか上品で自由で快活な祖母っぽいなぁとも思うのだった。


文章書くのぜんぜん楽しいと思わないな、という気分が続いて、当然感想も書きたいと思えなくなった。
4月の下旬くらいから眠れない日が多くなって、最近は寝酒を飲んだ時点でプレッシャーすら感じ、いよいよ寝付けない。寝不足と、睡眠に問題があるという事実やその他から来るストレスで過食が止まらない。胃も壊れはじめているような気がする。眠るためには疲れないといけないから運動しよう!と一念発起してフィットボクシングを購入したが、普通に体調が悪くてぜんぜん続かなかった。一体どうしろってんだ!?

体調が悪いのは休日に映画や観劇の予定を詰め込み過ぎているせいも明らかにあるのだが、そこを諦めるくらいなら体調とかどうでもいいや、という捨鉢な思いもある。バランスが取れるようになったらいいよな、いつか。

いつかって、いつ?

 

最近観に行った作品、比較的大きい劇場でやっていたのだが、席が全体の6割くらいしか埋まっていなかった。
話は面白くて、目当てのキャストもそれ以外の人のお芝居もすごくよかったし、特に場転が秀逸だなと思った。ストーリーの厚み重みや上演時間の長さを観客の負担に感じさせない素晴らしい場転だった。
だというのに、席がぜんぜん埋まってなかった。舞台上からもその埋まらなさがはっきり見えるだろうと思って悲しくなった。席を埋めてあげたいという気持ちを久しぶりに抱いた。でも既に予定が埋まっていて今からチケットは増やせなかった。無力だなと思ってしばらく落ち込んでいた。

 


感想が書けないことで、舞台を観てそれでどうしたいんだっけ?という疑問が湧いてきていて、舞台とわたしの距離感がおかしくなっていることを感じる。舞台を人生の一部にするつもりだったのに、そこがわからなくなったらどうすればいいんだろう。難しい。

2022年4月の記憶

今日行く舞台のチケットを発券するためにコンビニに行ったら、そもそもチケットを購入していなかった。何を言っているのかわからねーと思うが おれも何をされたのかわからなかった…

4月は公私ともに忙しく、観劇ツイートが1つもできなかった。たくさん観劇できたというのも忙しさに拍車をかけていたのだが、だとしてもチケットを買ったつもりになるのはまずい。

特別書き残したいものを抜粋して少しずつ感想を書いておく。

 

 

つかこうへい十三回忌特別公演「新・熱海殺人事件」ラストスプリング

初熱海! 初紀伊國屋ホール! 予定が合わずチケットを取っていなかったのだが、直前で休みが取れたので観に行けた。

わたしの知らないところでこんなに面白いことが行われていたのか、とかなりショックを受けた。もっと早く観ればよかったのにって。つかこうへい作品にもこれまで縁がなく、演劇の流れの中でどういう位置づけなのかもまったく不勉強なのですが、すごく好きだったし、恐らくこれから何度もバージョン違いの各作品を観ていけるだろうと思うと楽しみで仕方がない。

何年か前に、90年代に書かれたある戯曲の再演を観に行ったことがある。例えば同じ90年代の映画を映像として観るのとは違って、舞台は上演することで「今このとき」に起こっていることになるから、そのときは価値観を悪い意味で古く感じてしまうという経験をした。当時の色を再現する意図の作品もあるだろうし、どこまで当世的に演出(ないし潤色)するべきなのかは一概には言えないと前置きした上で、今作は「今」をネタに組み込む按配が心地よかった。その笑いがあったから、「今このとき」に心からそう思って言ったらコンプラ抵触まったなしの台詞たちが、かえってフィクションであることを強調されて聞こえるのだと思う。こういうふうに存在することができるんだ、と名作の再演に対する考え方が大きく変わった。

一色洋平さんは今回初めてお芝居を拝見したのだが、フィジカルの強さに圧倒された。

 

 

梅棒 14th WONDER 『おどんろ』

リベンジ公演! 昨夏のチケットを取っていたのでなおさら無事に上演されて嬉しい気持ち。梅棒は昨年末の『風桶』以来2回目。

去年から少しずつ多和田くんの舞台を観に行くようになって、まだどんなものを見せてくれる人なんだろう?という段階にあったんだけど、今回初めて何にも考えずに「か、かっこいい…」という状態になって帰ってきた。表情で踊る人を見ると胸が熱くなって、ああわたしいま生きてる!と思って泣く。

お話としては、まさかこういう別離があるとは思わず、まったく心の準備をしていなかったものだから、悲しみというよりも嫌だ!という気持ちで泣いてしまった。泣きすぎた。

梅棒を2回観て、対立する複数の派閥が和解してさよならするというのが基本のストーリーなのかな、と感じているところ。『風桶』を観たときもセリフなしで観客に意図したとおりのキャラクター像をつかませ、ストーリーを仕立てるという手法に驚いた。そして、音楽のあり方がすごく面白くて、ダンスを見せる要素の一部になっているときもあれば、歌詞が突然セリフとして機能することもある。2作の中で最も記憶に残っているのは、『風桶』での「神田川」の「怖かった」の使い方。

 

 

キ上の空論#15 『朱の人』

どうしても劇団スポーツ「怖え劇」を思い出してしまうが、それとは真逆とも言えるストーリーであり、結末である。

今でもすごくわからないことがあって、たぶん、この作品を観に来た人の多くは演劇が好きだと思う。実際に演劇を作った経験があるかどうかは別として。そういう性質を持った観客に向けて、演劇によって狂いそれでも演劇から抜け出せない人間を見せつけて、どうしようというんだろう、というのが疑問なのだ。そう思うということはつまり、演劇そのもの、またはそこで描かれる何かに救われたいと思っているということの証左でもあって、それはそれで作り手からすれば違うのかもしれないけれど…。

わたしは演劇を作る側にいたことは一度もないし、やってみたいと思ったことも一度もない。それでも、この作品を観たあとに稽古場で後輩を叱責している夢を見たくらいには引きずられている。そちら側に行ったらもっと違う見え方をするのだろうか、という興味は少しだけある。恐ろしいことに。

一番印象に残ったのは音楽。地震のシーンは本当に怖かった。聴覚からの情報に支配される感覚があった。

 

 

しあわせ学級崩壊 リーディング短編集#1 A

仕事終わりに焦らず行ける時間に公演があるのはとても有り難い。

歌でもないしラップでもないしリーディングであることは確実なんだけど、音楽と一緒になって小説がリズム感で入ってくる感じが新鮮で面白かった。今回は普段と毛色が違うとのことなので、普段のゴリゴリのEDMの方も行ってみたい。

上岡実来さんが読んだ宮沢賢治「マリヴロンと少女」で泣いてしまった。他の3作が独白に近い形だったのもあって、最後に会話を楽しめる作品が選ばれているのがより印象を強めたんだけど、それだけじゃなくて、少女が尊敬する相手に感情をぶつけたがる痛いくらいの必死さと、それを否定するわけではないけれどももっと高い視点からものを見ているマリヴロンの歌うような諭しの両方が心地よく膨らまされたリーディングがすごくよかったと思った。

 

 

他に、青年団「S高原から」(押さえておくべき名作のひとつをようやく押さえられた達成感)、ゴジゲン第18回公演「かえりにち」(帰りの状態になるまでの道のりを永遠に引き伸ばす気持ちへの共感、いつの間にかリラックスして観ている)、劇団競泳水着「グレーな十人の娘」(個々のやりとりや出来事は面白かったけど全体で見ると事件と動機はつりあっているのか?と思えてやや物足りない。シアタートップスはトイレまで行くのがつらいと学んだ)も観ました。

5月は少し余裕があるので映画も観に行きたいと思う。

2022年3月の記憶

大人になったらここで服を買おうと決めていた店がある。先週、初めてそこでブラウスを買った。高かった。スーツやコートを除くと、今まで買った中で一番高い衣類だった。頭ではこのお金があったらこんな舞台にこのくらいの回数行けるじゃんと計算していた。でも前向きな気持ちで買った。こういう小さな願望を堂々と叶える積み重ねで大人になっていくのだろう。いや、既にそれなりの大人ではあるのだが。

今月はなんやかや元気で、活動的に過ごせた1ヶ月だった。買うべきものを買い、美容院でいつもより少しリッチなトリートメントをしてもらい、あちこち観劇に出かけた。春は年度の切り替えに伴う環境の変化があるのが分かっているので心底憂鬱なのだが、ここ数年は仕事上の切り替えが春に被らなかったから、だんだん抵抗感が減ってきているのかもしれない。知らんけど。

コンスタントに観劇はしていたがツイートできたのは1作のみで、代わりにブログを1本書いていた。

 

20180929.hatenablog.com


「怖え劇」は本当に面白くて、こういう瞬間のために演劇を観ているんだよな、くらいのことは思った。小難しくて突き放されるような分からなさではなくて、どうしてこうなってしまうんだろう?という現実と地続きの分からなさがあるというか。現実と劇中劇の境界が曖昧になる、演劇文脈のメタっぽい構造も含まれてるんだけど、それについてウンウン唸って考えなくてもついていける程度の複雑さだと思うし、お話についていけさえすれば必ず最後で感情を爆破してくれる。

ツイートでも逃げ出したかったって書いたんだけど、逃げ出さなかったのにはもう一つ理由があって。劇団スポーツなら無闇に観客を苦しめて放置して終わる作品は作らないだろうという信頼があったから。というのも、昨年春の「ルースター」が面白かったので、年末の「南瓜色の兄弟へ」も続けて観に行っており、何となくこういうものを作る人たちなんだなという積み上げがあったのだった。作風への信頼とか、あるいはそれを裏切られる新鮮さとかは、劇団を続けて観ていくときに獲得できるちょっと特別な面白さだよな、とも思う。とはいえそれをいきなり実行するのは難しくて、面白いぞ!って言っている誰かを信じ込むところから始まるとは思うんだけど。

でも、もし、小劇場でやってる演劇ってどんなもんじゃいって興味を持っている人がいたら、いま劇団スポーツがイチオシですよと伝えたい。

「怖え劇」は4/5まで配信中とのこと。

twitcasting.tv

 

全く言及できなかったものもあるのでまとめて振り返っていく。

 

unrato#8「薔薇と海賊

ぼーっとしていたら一切言及できないうちに大阪千秋楽まで終わっていた…。三島由紀夫ってこれまで全く触れたことがなくて、かえってフラットな気持ちで、身構えずに観に行けたと思う。3部構成で、しかも3部が30分だったのに驚いたことを覚えている。

現代のリアルな口語でやられていたら気が滅入ってしまっただろう内容だった。全部が全部ではないけど、比較的多かったと思う。そういうセンシティブな内容を、三島由紀夫の文体と、その文体がもたらす世界観を損なわないお芝居によって、演劇として受容しやすいように丁寧に形作られている作品だ、という印象を持った。

阿里子をどのような人物として演じるかによって大きく作品の質感が変わると思うんだけど、霧矢大夢さんはあの世界の柱としてゆるぎなく存在していた。多和田任益くんの帝一は子どもそのものという表情と振る舞いなんだけど、その高身長のおかげでただの子どもにとどまらず、アンバランスな魅力がよく出ていたと思う。

1幕で阿里子と帝一が二人にしか通じないおとぎ話の世界の言葉で語り合うシーンは、羨望を感じたというか、卑近なところでは他者との相互理解を考慮しない素の語りがそのまま通じたときの気持ちよさ、分かってもらえる安心感みたいなものを重ねて感情移入をしていた。それが3幕のラストで色鮮やかに可視化されて、世界が物理的に拡張される演出は心地よかった。冒頭から、シアターウエストってもっと広く使えた気がするなと思っていたんだけど、あの演出のためだったのかと合点がいった。

 

月組公演 『今夜、ロマンス劇場で』『FULL SWING!』

2018年のエリザベートを観てから月組のことは何となく気にかけていたのだが、まったく観に行く余裕がないうちに月城かなとさんがトップになっていた。ルキーニの髭面が本当によくお似合いだったのでずっと覚えていました。おめでとうございます。

今夜、ロマンス劇場で』はオタクなら一度は夢想したことのある、推しが画面を飛び越えてわれわれの世界にやって来たら…が実現してしまうというストーリー。後から知ったんだけど、2018年の映画が原作らしい。助監督として働く健司もスクリーンから抜け出してきた美雪姫もほどよくキャラクターが立っていて、すぐ好きになれたから楽しく観れたし、ライビュだったんだけど周りのファンと思しき人たちがすごく楽しそうにしていたのでそういうのも(準)現地の醍醐味だなと思ったり。ただ、オタクとしてのごく個人的な感情移入が多少勝っていた面もあるかもしれない。

お芝居とレビューが完全に分かれた2本立て形式のタイトルを観るのは初めてだったもので、『FULL SWING!』の方は正直どう観ればいいか分からず戸惑った。キャラクターを明確にされないと世界に入っていけないところがある。もっと生徒さんご本人への興味が高まった状態で観るといいのかもしれない…。今後も月組は優先的に観ていきたいところ。

 

ミュージカル『刀剣乱舞』幕末天狼傳2020

先月円盤を買ったきりになっていたが、ようやく観れた。初演は去年観ていて、観なおしてはいないので完全に感覚だが、初演では沖田くんへの気持ちに振り回されてしまっているところがあった安定が、再演では考えて動けている部分が増えているように感じた。あと、江水のあとに観たせいもあって、土方組はこの頃から心の成熟度が高いのだなと思った。むすはじ観てないから何ともいえないが…。

サブスクで観られる2.5次元、余裕のあるときにどんどん履修しなくてはという気持ちはあるのだが、実際余裕はないし、ペダステが観放題の順次解禁をやっている上に今週末にはくろステも来るし、もう永遠に追いつけないのではないかと弱気にもなっている。

 

映画は「おそ松さん」だけ観れた。それも公開2日目に観た。

アニメオタク兼2.5次元俳優オタクみたなことをやっているが、おそ松さんは一切通っていない。100:0でSnow Man目当てだ。しかもYouTubeとたまに素のまんまを追いかけているだけの超ライト層だ。許して。

じゃあなんでそんな張り切って観に行ったのかと聞かれると答えに窮するところではあるが、一言で言うならブラザービートのふっかさんがかっこよかったから、だと思う。前からメンバーの中で一番好きだったけど、より一番好きが確立された感。先に見たのがDance Practiceの方だったからそちらを貼る。

youtu.be

いい曲ですね。

予告を観た時点で「物語終わらせ師」なる概念にハマる予感が止まらなくなっていたんだけど、エンドロールを見たら脚本がシベリア少女鉄道の土屋亮一さんだったので完全に理解した。今度の公演は配信があるので、ああいうメタでめちゃくちゃなお話が好きな人はかなりおすすめ。

www.siberia.jp

人気アニメの実写化どうなのよ問題と切っても切り離せない作品だとは思うが、原作を知らない自分としては、演じるキャラクターのカラーとキャストの現在のお芝居をつまみ食いできて、エンタメとしてかなり満足した。お芝居の見せ方や面白さで言ったらめめが飛びぬけているのかな、という印象だったけど、恋愛ものパートを担うキャラたちが物語を奪い合う丸出しの攻防が好きだったから、そこに関わっていたメンバーは特によかったと感じる。八木莉可子さんのミステリアス増し増しの立ち居振る舞いにも大いに目を奪われた。


作品関係以外だと、講座を1つオンラインで聴講した。

www.nhk-cul.co.jp

太田基裕さんはいま生で観たい役者のひとりで、Twitterを見ていたらこういうお話をするということだったので気軽に参加した。印象的だったところを少しだけメモ。

  • 2010年の「青の戯れ」で演出家の中津留章仁さんに「そういう気持ちになったらその台詞を言って。そういう気持ちにならなかったら言わなくてもいい」という演出を受けた。
  • BGMも含め、役として音の情報を脳に入れるか入れないかは使い分けている。
  • ゾーンがずっと続くことを夢見て芝居をしている。それができたらそのものになれるから。それができたら満足してやめちゃうかもしれないけど、そういう瞬間があったらファンの皆さんに見てほしい。

ご本人のお話が興味深かったのはもちろんだけど、質疑応答でのファンの方たちの発言も印象的だった。何年の○○という作品ではこういうお芝居をされていたと思いますが…みたいなことをしっかり発言されていて、長く応援しているからこその「好き!」だけじゃない太田さんへのリスペクトが強く感じられた。自分は飽き性だからそれがかなりはっきりと羨ましかった。

この講座をきっかけに、講師をされていた須川亜紀子先生の『2.5次元文化論 舞台・キャラクター・ファンダム』を入手したのだが、第1章をようやく読み終えたばかりでまだリアクションが取れる状態ではない。上半期中には読み終わりたいが果たして…。

www.seikyusha.co.jp

 

まだいくつか書くべきことが残っているが、まとめられていないから今月はここまで。

今月も感想類に字数を使いすぎて力尽きた。ツイートができないなら400~500字でもブログに書くということにして、なるたけ時間をおかずにアウトプットするようにする。4月は6作観劇予定。なおさらどんどんやっていかないと。

ミュージカル『刀剣乱舞』江水散花雪雑感

ミュージカル『刀剣乱舞』江水散花雪を観た。初の生刀ミュ。生どころかこれまでライビュに行ったこともなかったし、配信を含め公演期間中に作品を観るのも初めてだった。初期の作品と真剣乱舞祭をいくつか観たから、経験したような気になっていただけだった。さらに言うならTDCも恐らく3rd比嘉凱旋で行ったきりの約4年ぶり。懐かしさと新鮮さが入り混じって、やや緊張しながら開演を待った。

初期の刀ミュ本丸における刀剣男士の歴史改変や元主に対する言動は彼らの性格、ひいては彼らの持つ(あるいは持たない)物語に起因していた。しかし、本丸の時系列が進むことによって刀剣男士たちの振る舞いの差は練度からも生まれるようになった。最近に顕現したもの、古参のもの、修行から帰ってきたもの。今回の6振りは錬度の差が顕著であり、本丸に来てからどのような経験を積むかによって彼らは変わっていくのだと明確に示された。あの編成はミュージカル刀剣乱舞という作品が持つ歴史の価値を発揮するものであると同時に、刀剣男士にどんな経験をさせるかという審神者の責務の重さを語るものでもある。とりわけ山姥切国広に関して。

刀ミュ本丸の山姥切国広は奇妙だ。一般的に山姥切といえば自分が写しであるという事実に葛藤し、煩悶する存在である。写しというものに悩むことで前進する性質が刀ミュ本丸の彼にはない、とまでは言い切れないが、それを超える別の問題に引きずりこまれており、性格の輪郭が変わってしまっている。内職に精を出す生活感の強いところがあるし、話し方も他の山姥切とは大きく異なる。いや、話し方についてはキャストの実力を加味するべきであるのだが、思うに刀ミュの製作陣ならキャラクターに寄せられるよう如何様にでも導くことができる。あえて異なる存在に見えるようにずらした演出が選択されていると考えられる。

包み隠さず言葉も選ばず正直な気持ちを言えば、バチクソ芝居の上手い王道の山姥切国広が見たかった。こちとら山姥切を初期刀に選んでるんだもん。山姥切が出るっていうからチケット取ったんだもん!(突然の自我) でもまあそう演出されているならそうなのだし、かなり序盤で受け入れた。作品のためにそうである必然性があるからだ。

奇妙な山姥切は、放棄された世界のメタファーだった。初期刀の刀剣破壊という経験によって“正しい”山姥切国広から切り離され、淀んだ存在。今作で放棄されたあの世界に対して刀剣男士たちは何もしてやることができなかったが、山姥切を希死観念の淵から連れ帰ることはできた。バッドエンドの任務を描く本作が失敗の物語で終わらないのは、この山姥切の存在があってのことだ。そして山姥切自身も大包平に全員を生きて連れ帰るという隊長の責務を教えたことで、かつての過ちを少しでも精算できていたらいいと願ってやまない。

 

パフォーマンスについて、水戸学の場面や江戸の町など、市中の人々が歌い踊ったりめいめいの行動をしたりという演出はグランドミュージカル(という定義であっているだろうか)を意識した、革新のそばにある民衆の描き方なのかなと感じた。一握りの武人が世を動かす様に焦点を当てるのではなく、それを普通の人たちがどう見ているか、どんな影響を受けているかをパフォーマンスで見せるという手法。先述の通り自分は初期の数作しか刀ミュを観ていないが、その中にはこういった民衆の描き方はなかったように記憶している。もしかすると直近の他の作品では用いられていたのかもしれないけれど、列強と肩を並べるにはどうすればいいかと検討するタイミングの江戸を描くにあたって、そういった欧米のイメージを持つ演出をするのはぴったりだと思った。



最後に刀剣男士について特に書きとめておきたいことを細々と。
兼さんがかっこよかった。兼さんがかっこよかった! 登場シーンだけでチケ代分の感動を得た。馴染みの刀がいてくれる安心感。いろいろな刀剣男士たちの元主への愛情のあり方を見てきたけれど、兼さんはすごくいい視点にたどり着けたのだなと思った。観劇当日、耳のチューニングが最後まで合わなくて(よくある)歌っている言葉の細部が聞き取れなかったので、早く歌詞と照らし合わせながら聞きなおしたい気持ち。みんながばらばらになっていく中で副隊長的にフォローするのが上手くて、門外漢なりにもそりゃあ副長の刀だもんなあと思って泣きました。あと、二部の衣装の股下が5kmあった。

大包平大包平!!!!!という感じで期待が十分に満たされる気持ちよさだった。声がでかい!!! そしていかにも太刀!!!な大振りだけど無駄のない殺陣が爽快だった。肥前くんとの2部デュエット曲、なんかびっくりしてるうちに終わってびっくりした。2部の曲の振り幅もどんどん大きくなるのだな。そんな肥前くんは背中丸出しで二度びっくり。

 

南泉は今回、刀剣男士の人間を愛してしまうという側面を大きく担う役回りだった。それも、例えばジョ伝の長谷部が恋慕にも似た深い愛情を元主に抱くのとは異なり、一瞬の共闘から友情に発展するという人の姿を得てからの愛だ。刀剣男士にとって、人間への愛情が必ずしも良い方向へ傾くとは限らない。それでも心を捨てず、歴史や人間に向き合う彼らだからこそ、われわれも彼らを愛してしまうのだろう。

小竜くん、どんな刀かほとんど知らなかったけどすごく好きになれた。黒衣ってどんなシステムなんだろうと思ったら本当に黒衣だった。あの衣装もかっこよかったな。マスクをしているのもこのご時勢違和感がなく、長田さんの声の表情と兵藤さんの美しい所作でひとりの刀剣男士が確かに存在していた。最後までこれ以上のアクシデントなく駆け抜けられますように。


20180929.hatenablog.com

 

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